暁杜

るろうに剣心 蒼紫巴 蒼操 小説ブログです。

爪牙 (五)

巴の乗る舟は、南千住のカーブのあたりにさしかかった。巴は蓑をかぶって弟と舟の中で息を潜めながら、どこかで斬り合いの音を聞いたような気がした。身が縮こまった。この老人は自分をどこかに売るつもりはなさそうだ。しかし、このような世界に身を置いていて、生きた心地がしないのであった。老人の短い言葉では、隅田川から舟を乗り換えて、どこかに逃がしてくれるのだろうと思った。そして遠いどこかで、籍を変えて自分は生きることになるのだろうと思った。思えば幼い頃からそんな予感があった。巴にはそれがつらかった。

舟がカーブから千住大橋に向かって促行を続けているときだった。突然、両岸に泊めてある舟がこちらに向かって動きだした。老人は「むっ、これはいかん。」と小声で言った。しかし努めて舟を静かに操っていた。巴の乗る舟の後ろに、二艘の舟が忍び寄ってきた。いきなり、その菰をかぶったその舟の中から槍がこちらに向かって、ごん、と突き出した。しかし狙いは老人の方ではなく、巴たちのほうであった。狙いはしかし、間一髪ではずれた。老人がそう舟をせわしく櫂で操ったのであった。しばらく槍と巴の乗る舟との格闘が続いた。老人は最後に槍を櫂でたたいた。「その女を置いていけ・・・・。」と声がして、夕闇の中で数人の男が槍の出た舟から立ち上がった。

「この寂庵を見知り置いてほしいの。」

と、老人は言い、櫂を櫓に置き頭に被った笠を河面に放ると、腰の刀を引き抜いた。舟はまだ上流に向かって慣性の法則で流れている。しかし、ここで足止めを食らうと、このままでは千住大橋で絡め手に捕られてしまう。寂庵は焦った。蒼紫は何をしているのかと思った。

ばらばらと数人が巴の乗る舟に飛び移った。寂庵はそれを剣でなぎ払い二人ほど水面下に突き落とした。ざんぶと音がして、巴の乗る舟が激しく揺れた。巴は立ち上がろうとした。しかし、寂庵が「今立ってはならん!」と叫んだ。「ねぇちゃん、ねぇちゃん」と縁が巴にしがみついてきた。巴はそれをかばった。水しぶきが激しくあがった。その時、縁の背後から小さな影が空中に飛んで、手裏剣のようなものを続けさまに投げた。

「ばかやろう!さんぴんども全員死刑にしてやるぜ!」

「ばかものっ、騒ぎを大きくするでないっ。猩々っ。」

寂庵は死闘を繰広げていた。三艘の舟の間を飛び移りながら、ほとんど軽業師のように敵の男をなで斬りにしていた。次々と男たちは、河底に沈んだ。しかしその騒ぎはもう、千住大橋付近で見えていたようであった。

「猩々、棹を戻せっ、船を逆手に押し上げるんじゃっ。」

「わかったよ。じいさん、後のやつらを頼むぜ。」

寂庵は一艘の船に乗っていた狼藉者をすべて川に沈めると、猩々と呼ばれた小男にすばやく命じた。まだもう一艘の船が追いすがって攻撃をしかけてきていた。カィン!!!寂庵の持つ刀がそれをはねた。男は鎖分銅を投げてよこそうとしていた。男は言った。

「その女はさる場所で必要なのでな・・・・・老人、そろそろ疲れてきたところではないか?」

「バカを言うな。貴様には吹き矢で目潰しでどうじゃ。」

「女を置いていけと親切に言っているのにな。ムッ、ころあいが来たか。」

猩々はその時叫んだ。

「千住の大橋だ!ねえさん、岸をよく見てな。若頭が助けに来るぜ。」

橋の欄干が迫っていた。呼ばれて巴は、この漕ぎ手は、ずいぶん小男なのに巧みに櫂を操っていると思った。

その時岸に人影が数人動くのが感じられた。

「若頭!」

その猩々の叫ぶ頭をかすめて、その数名は楔を放っていた。

「ううっ。」

先ほど分銅を投げようとしていた男たちは、顔に楔が突き刺さって、次々ともんどりうって川面に落ちた。

「へへっ、さんぴんおととい来いってんだ。な、火男?」

「癋見、おれも行くぜ!」

火男と呼ばれた太った男がよたよたとこちらに向かってくるのを、さっと前に出た般若の面の男がさえぎった。

「しっ、早くしろ、おい、女と子供。こちらの岸に向かって早く飛び移れ。」

巴はその般若の面にぎょっとしたが、もはや言う通りにするよりほかないので、般若が手をあおぐのに「はい。」と鷹揚にうなずいた。

そして縁の手を引いて船から跳ぼうとした、その時であった。

 

「────その娘と子供の命はあずかるぜ!」

 

橋の上でだれかがしゃべって、こちらに紐のようなものを投げるのが見えた。

「まずい!」

誰かが一声、鋭く叫んだ。巴ははっ、として手を空に伸ばした時、誰かに抱えられて自分が向こう岸に降り立っているのがわかった。

どうやら橋の欄干の下部にひそんで巴らを待っていたようなのである。

しかし。

「縁!縁!」

巴は思わず絶叫した。

「ねえちゃん!」

縁の左足にその紐のようなものはすばやくからまって、男はそれをさっと橋の上まで手繰り寄せた。まるで手品を見るかのようであった。

そして縁が大橋の上に立っている片目の男に抱きかかえられて、橋の上をあっという間に北の方角に向かって遠ざかっていくのが見えたのだった。

縁が奪われたのだ。

「なんたる失態。」

寂庵が目をいからせてつぶやいた。しかし欄干の男の投げた紐による攻撃はあまりにもすばやく、防ぐことは無理なことであった。巴が逃れたのは間一髪というよりほかない。

「般若、女を頼む。」

巴を抱えて岸に降り立ったのは、巴の知らない蒼紫その人であった。蒼紫は巴を岸に立たせると、縁の奪われた方角へ行こうとした。

しかし、寂庵がそれを止めた。

「待て。今は追わぬほうがよい。あの者らは、役に立たなければあの子供の命を奪って、すぐに路傍に放り出す。子供の命はあの者らに預けるよりほかない。」

「何かに使うというのか。」

「だからその女と交換とか何か言ってくるのを待つのじゃな。でなければ、女の握っている証拠品との交換じゃ。」

巴は必死で言い募った。

「あの、私が何か持っているというのですか。」

寂庵は重ねて穏やかに言った。

「まあそんな昔のものは今では持っておらぬと思っているが、見た者もいるのでな。とりあえずあんたは小石川の療養所で安息すればよかろう。蒼紫、そこまで連れて行ってやりなさい。」

「はい。」

蒼紫はそれだけ答えた。

巴は思わずまじまじと蒼紫の顔を見た。それはたいそう綺麗な人だった。巴はそう思った。しかし───────。

先ほど夕闇の中で戦っていた音は、この者だったのかも知れない。

彼等は皆濃い藍色の忍び服を着ていた。それは明らかに日常の者のいでたちではなかった。巴はやはり恐ろしいと思い、あわてて目を伏せるようにした。

「では、参りましょう。」

若頭と呼ばれた蒼紫がそれから黙っているので、横合いからにこやかに猩々が言った。巴は静かにうなずいた。

彼等は巴について何かを知っているのであり、だからあの吉原にまで巴を助けに現れたのだ。それが何かは、まだ巴は知らなかった。

広告を非表示にする