暁杜

るろうに剣心 蒼紫巴 蒼操 小説ブログです。

爪牙 (四)

道は平坦であった。しもた屋の家々は静まり、軒を連ねていた。

突然家がまばらになって、葦原がしげっているところに木をつらねただけの船着場があった。

老人は、「そこから乗りなさい」とそこに泊まっている一艘の手漕ぎ舟に巴が乗るようにうながした。

そこへ、思いもかけぬ者が向こうから、吉原の方向から走って来た。

縁であった。

「ねぇちゃん、ねぇちゃーん」

と、誰か小さい者の背に背負われて、あの縁が走ってくるではないか。

巴は思わず涙がこぼれた。努力は報われたのだ。奉行所の「裏」の庭で、あのような者たちの真似事をさせられた自分、「上役」に囲まれて、息が詰まりそうな苦しかったあの毎日。それもみな、この弟のためであった。

縁はその者の背から下ろされ巴の手をひいたが、老人が短く叱責した。「叫ぶでない!早く乗れ」と言った。巴は弟と船に乗った。老人は最後に乗ると、船着場の木を足で蹴って、棹を出した。そしてこぎ始めた。

「蓑をかぶれ!」

老人はこぎながら小声で低く言った。

巴はあわてて弟と船に置いてある荷物の間にある人足用の、数枚置いてある蓑をかぶって息を殺した。船は隅田川の南千住の横の、東に湾曲した場所をのぼりはじめていた。ぎぃーっ、ぎぃーっ、と櫂を漕ぐ音だけが水面にきしんだ。夕闇の隅田川は静かに流れている。巴には短いが長い時間であった。

 

 

 

 

その同じ隅田川の一角。巴らの乗った舟が出た場所から程近い北東の暗い草原で、死闘が今繰り広げられていた。

葉霞と蒼紫であった。蒼紫はすっかり成長していて、ほとんど大人の男であった。

「やるようになったね。ではこれはどうだい?」

と、葉霞は腰から短剣を引き抜いた。

周りにはやはり女の忍者が数名、蒼紫を取り囲んでいる。

一人は分銅を片手でぐるぐる回している。全員、すさまじい殺気を放って蒼紫に対峙している。対する蒼紫は無言であった。剣を二本、小太刀を手に持っている。狙いどころを探られないようにか、両手とも常にゆっくりと一定の速さで、まるで念仏の舞踊をしているように動かしている。剣先はそれにつれて、いろんな方向に動く。蒼紫の目はしかし、その剣先を見ずに前方の葉霞の顔を凝視していた。

葉霞の顔は薄笑いを浮かべている。そしてそれを見ると、あわせたように、右手に持った長い太刀をおなじように動かしはじめた。一見二人とも、相手を誘っているようにも、遊んでいるようにも見える。しかしこれは死闘であった。

葉霞は蒼紫の脇を狙って第一撃を入れた。キン!という軽い音がして、蒼紫の太刀はそれをはねた。手は交差させている。そこへ分銅が飛んだ。蒼紫は後ろにパッとすり足で飛んだ。

「じりじり追いつめてやるよ。そのまま後ろの隅田川に落っこっちまいな。」

と、分銅の女が言った。葉霞はそれを聞くと、少し顔をしかめて脇の女に言った。

「麗月、殺(や)れっ。」

と言った。

「はいっ。」

麗月と呼ばれた女はやはり葉霞と同じように大刀の女であった。蒼紫と葉霞のように剣を動かそうとしている。しかし、少しその動作に緩慢なところがあった。しかし首をひねり、気合いを「えぁっ!」とこめると、蒼紫に向かって突進してきた。蒼紫はその剣をくるりと体を回転させて受け流すと、葉霞に向かって一撃を加えようとした。行過ぎた麗月と呼ばれた女が前にのめって、倒れようとしている。そこへ、鎖鎌が飛んだ。

彼女らは、葉霞配下の女忍である。「霞五人衆」と呼ばれていた。麗月、星月、壮月、霜月、朔月という五人の手錬による女性ばかりの精鋭部隊である。常日頃から、先代───ということにしておこう。この物語の最後ではそうなるだろう。その蒼紫を実質的に育ててきた老人らに対し、反抗的な態度を見せていた。しかし、葉霞はこの先代の配下の一人であった。葉霞らは先代らとそのような複雑な関係なのであった。

蒼紫は先代らの指示で今、この千住河原でこの者らの巴への追撃を阻止しているのであった。蒼紫がこれまでやってきた任務の中では、一番やりがいのある仕事であったであろう。しかし、彼の内心は複雑であった。自分がその、巴という女をそのような境遇に貶めた一端であったということを、彼は考えているのであった。

鎖鎌を使う朔月は、かなりの手錬であった。ほかの四人の動きをこの女はサポートしている。分銅の女、霜月が一番術が弱い。だから、この包囲の網を抜けるとすればそこだ。蒼紫はそう考えた。

巴の乗る舟は隅田川を出航して、すでに遡行をはじめていた。そのまま無事遡行し遂げ、千住大橋から日光街道で悟られぬようにして自分配下の者を使い北に逃がす。実は、蒼紫は先代とは違う「計画」でそう考えているのであった。先代からの指示は、吉原西にある、日光街道を下ったところにある回向院に隠まえということであった。しかし絶対にそうはさせるものかと蒼紫は考えていた。

ついに、彼の中で何かが充填充満爆発し、主客正邪転倒することになったのである。だがこれは、至極当然のことであったのであろう。この夕闇の迫る時刻が、彼の人生の新たなる分かれ目であった。しかしこの計画を失敗した場合、自分は先代に悟られぬように動かねばならぬ。できるだろうか。しかしやってみせねばならない。

蒼紫はあまり、忍びの「腹芸」が得意ではない。だから忍びの内部でも、ただの先代が育てた術専門の忍び人間として扱われている。そして「あれ」が次期御頭に昇進するのかとも陰口をたたかれていたりした。蒼紫はそうした風評を耳にするたびに、自分が人として劣っているような気持ちがして、なんとも言えない気持ちになった。なぜ人間は表裏一体に生きてはいけないのか。しかし蒼紫のいる「忍び」の世界はまさに「それ」であった。

朔月の鎖鎌が蒼紫の進路を絶つように左右に振り子のように動いている。朔月の鎌が蒼紫の膝を狙って入った。蒼紫はまるまって飛び越した。それを見て葉霞はにやりと笑い、瞬間「壮月!」と叫んだ。二本刀の壮月が、着地した瞬間の蒼紫を狙って、第一撃を入れた。蒼紫はそれを受けた。激しい斬り合いになった。

二人とも丁々発止という感じで受けている。だが壮月が押されていた。麗月が言った。「そろそろ殺(や)るかい?」葉霞は楽しそうに言った。「そうだねぇ。」葉霞は剣を構え戦っている蒼紫に狙いを定めた。

葉霞と麗月は蒼紫の背後に回って、同時に激突して剣で串刺しにしようとした。しかしその瞬間、蒼紫の姿はなかった。

葉霞は「なにっ。」と言った。あわてて星月と呼ばれる背の低い女が、印を結んだ。高い澄んだ風鳴りのような音が風に響いた。いやそれは、その場に居合わせた者だけが聞いた音だったのかも知れない。「う、うるさいっ!」と霜月、鎖分銅の女が片耳に手を当てて叫んだ。「静かにしなっ。まだそのへんにいるはずだ。星月の術で動く音を探すんだよっ。」と葉霞は小声で叱咤し、指示した。葉霞は黒髪の間から、あたりをなめるように見回した。蒼紫の姿はない。星月が印を結んだまま、膝を折り、小さく叫んだ。「蝶!」

五人の女の目に舞い狂う幻覚の蝶が表れた。蝶の動きは錯綜し、夕闇の中で燐粉が燦々と光り、見ていて目まいがするようだった。そのような幻覚術なのである。おそらく、たまたま通りかかった者には見えないかも知れない。いやその者も巻き込まれてしまうかも知れない。人間の脳波をあやつるそれは、それほどの威力であった。

数分たったようであった。葉霞の顔にさすがに焦りの色が見え始めた。葉霞は「だめか。落とせ。」と短く言った。後ろの隅田川の水面が盛り上がった。それはふくれあがり、五人の女を飲み込んだ。水面は沈んだ。水は泥の泥炭地にあふれていって、緩やかになった。「星月の術は見えていたはずだ・・・・・・・・しかし逃げたか。早く千住大橋へ!」と、葉霞の意識のような声がした。五人の女たちの姿はそこから忽然と消えていた。

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