暁杜

るろうに剣心 蒼紫巴 蒼操 小説ブログです。

道行 (四)

巴たち一行は中山道を諏訪方面に下っていた。今のところはいたってのどかな道中であるが、以前と変わりなく蒼紫は無言だったし、巴はすっかり怖くなって笑顔がその顔から消えていた。碓井越えの前の時とは何もかもが違っていた。蒼紫のことは忘れるように、と前を歩く寂庵は言った。自分もこの先この人と会うことは、二度とないのだろうと思った。そう思うと、下諏訪までの一歩一歩が巴には大切なものとなった。しかしこの時の時間は同じように無情に過ぎていく。それが巴にはつらかった。引き伸ばしたいのか――だがそのようなことは到底無理なこと。また蒼紫は自分のことをどうとも思っていないようにも見えた。

私はただ、失った清里の形代がほしかっただけなのだ。そう思おうとした。しかし蒼紫は清里よりも数倍優れた人間であった。それは見ているだけで巴にはわかった。自分はないものねだりをしていると思った。そんな物欲しそうな女はきっとこの人は、と思った。自分には何の武芸のたしなみもないのにと思った。ただ少し剣術の真似事ができるだけであり、それはあの死んだ御沙薙のような女からすれば、おそらく見下されるようなことである。現に今も蒼紫の足をひっぱっている。私はこの人の生きる世界からは遠い。巴は考えた。江戸に無事戻り、日常生活の中で、私は時々この時のことを思い出す。この人のことを、誰にも言えず・・・・私だけが知っているということで。それを後生大事に囲つだけが自分という女なのだ。なんという平凡さだろう。

蒼紫らは先ほど倒した御沙薙たちも、遺体は並べて沿道にあったむしろをかけた。本当は土に埋めた方がいいんですがね、時間がねぇからと式尉は言った。それも巴には御庭番衆への意外な驚きだった。生きて動いている間は、おのおのの考えがあるからのう。それが人間なんじゃ。死ねばみな等しく塵になる・・・・寂庵は南無阿弥陀仏、と唱え手を合わせた。

「どうして蒼紫様たちがいるということを、あの時言ってくださらなかったのですか?」

巴はたまらずに寂庵にその時少し言い募った。寂庵は「それも術のうちじゃ」と答えた。

「あんたがそのようなそぶりを見せると、御沙薙に気取られる心配があった。腹芸で渡れるようでなければ立派な術者とはいえん。ま、蒼紫の場合はそれの訓練を受けておるからの。これはまあ、嘘をつき慣れているということじゃ。」

横に立ち手を合わせてすぐに向こうに立ち去った蒼紫の顔は、巴の目にはそう寂庵に言われても何の感情も動いていないように見えた。この整った顔の下に、御沙薙をあざむき切り捨てたあの残酷さがある。だが寂庵の蒼紫評は、悪気があって言っているわけではない。それは巴にもわかっていた。ただなんだか巴には、蒼紫の人生がとても寂しいもののように思えた。傾いてはならないと思う巴だったが、清里の爛漫だった性質に比べると、蒼紫は気の毒なぐらい暗い男だった。彼にも笑顔が浮かぶときがあるのだろうか。それはしかし、私には見ることはないのだろう。そう思った。

「湖が見えてきましたね。そろそろです。」

怪我をして待機していた猩々が彼方の青色の水面を指さした。山並みの間に見えた諏訪湖の水面は、陽光にキラキラと輝いていた。その時だった。「あ」と巴は前に少しつんのめった。左足の草鞋の鼻緒が切れていた。巴は歩けなくなった。

「こんな時に。」

巴が申訳なさそうに言ったとき、そばにいた蒼紫が不意にしゃがみこんだ。蒼紫は巴の足から草履をはずそうとした。巴はびっくりしてとっさに足を引っ込めようとした。蒼紫は叱りつけるように言った。

「動くな。」

「・・・・。」

「すぐにすむ。」

巴は内心びくびくしていたが、蒼紫に素直に足を預けた。蒼紫の手が足首に触れたのを感じた。この人の手だ、昨日握った手だ、と巴は思った。瞬間大きく胸の鼓動が弾むのを感じた。蒼紫に気取られただろうか、とうつむき頬が染まるのを巴は蒼紫から見えないようにした。

「御頭。先に行きますぜ。」

と、式尉と火男が歩いていく。二人の様子を、もらい見して肩をすくめたようであった。縁は立ち止まって蒼紫たちに不満そうな顔をしたが、「おい」と猩々に背中をどやされて、前に歩き出した。御庭番衆たちは縁から見れば、やはり怖い兄貴分だった。

蒼紫の作業は数分ほどですんだ。

「これでいい。歩けるか。」

「はい。」

と、その時上空からぽつりぽつりと雨脚がかかり、見る見るうちに本降りになった。巴は菅笠を持っていたが、防げるようなものではなかった。一行は手近な雨宿りのできる場所にあわてて入って行った。巴たちは、先に行った連中とは自然別になってしまった。沿道の古い民家の離れの軒先に蒼紫たちは入った。雨はしばらく降り続くようであった。二人はしばらく押し黙っていた。巴はこの雨がやまなければいいのに、と思った。あと数刻すれば蒼紫とは離れ離れになる。何か一言言わなければと思った。しかし蒼紫に話しかける勇気がなかった。私はどうしてこうなのだろう、と巴はぼんやりと考えた。自分は生まれつき他の娘に比べ口が重い。清里は俺は気にしないよ、と笑ってくれたが、蒼紫はどうだろうか。先に口を割ったのは蒼紫の方だった。

「・・・・この雨のうちは、敵は仕掛けてこないだろう・・・。」

「はい・・・・。」

「あなたには、悪いことをした。すまない。」

「あの。」

蒼紫の言っている意味が漠然としていた。そしてやはり蒼紫は任務のことだけ考えているのだと思った。巴は空を見上げながら歌うように言った。

「御恩は一生忘れません。江戸に帰っても、忘れません・・・・。」

「俺もあなたのことは、一生忘れないだろう。」

巴は蒼紫の言葉に、はっ、とした。これまでとは違う調子だった。というよりも、そのようなことを蒼紫が言うとは思わなかったので、巴は蒼紫の方を振り向いた。

間近に蒼紫の顔があった。蒼紫は指を伸ばして、昨日斬られた巴の頬の傷に触ろうとしていた。「髪に水が」、と言ったようだったが次の瞬間巴は心底驚いた。巴は蒼紫に抱きすくめられていた。心臓が縮み上がるような思いだった。ああうれしい、と巴の心の中のもう一人の巴が言っていた。しかし巴は蒼紫の体に手をあてて、押しのけるようにした。

「あの、やめてください・・・・。」

巴は消え入るような声でそうささやいた。蒼紫の上にかけた両手がふるふると震えた。そしておずおずと蒼紫の体から身を引いた。自分がやっていることは、思っていることと違う、そう思うと巴の心は泣きそうだった。そうではないと巴は思った。もうすぐ別れるのに、明日の保証もなく蒼紫と抱き合うのは巴は嫌だった。この人も清里と同じと巴は思った。それがつらくて悲しかった。頬に一粒の涙がこぼれた。

蒼紫の目にもそれは映ったようであった。蒼紫は目を落として言った。

「・・・・美しい名前だと思った・・・。」

「え・・・。」

「あなたの名前、雪代巴というのが、美しい名前だと思った。俺の母の故郷は上州で、冬には多く雪が積もる。音もなく空から雪が舞い降りる時があるのだそうだ・・・。」

とっさに蒼紫が何のことを言っているのか、巴にはわからなかった。ただすまないという意味で言っているのだと思った。巴は言った。

「あの、これ以上のことは・・・・。」

見上げた巴の目に、蒼紫の顔が映った。巴はその顔を見てはっ、となった。蒼紫は巴を気遣うような、優しい微笑みをその口元に浮かべていた。指先で巴の頬の小さな瑕を指向しながら、蒼紫はそっとささやいた。

「その名前が消されるのは惜しい――血の雨で。」

蒼紫はそれだけ言うと、立ち上がった。巴は蒼紫にとっさにすがりつきたい気持ちを抑えた。こんな時はもう二度とない――おそらくないのだ。巴にはそれがよくわかっていた。蒼紫はやや小降りになった雨の中を駆けて行った。

巴は思った。どうして私は――あの人に好きだと一言だけでも言えなかったのか。蒼紫が自分を求めたのなら、少しだけでも分けられなかったのか。もうあの人の人生と私の人生は、交わることはないのに。

巴はしばらくその場で石像のように動かなかった。

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