暁杜

るろうに剣心 蒼紫巴 蒼操 小説ブログです。

挽歌 (四)

巴はその夜、床についていた。なかなかその夜は寝付かれなかった。寂庵の言った父の仕事、そして母の形見を蒼紫に預けてしまったこと・・・・・それらが巴の心をちりちりと焦がし、揺さぶり続けた。やはり蒼紫に渡すべきではなかったのではないか?自分は軽はずみなことをしてしまったのではないか・・・・・。いや、蒼紫は信用できる人物なのだ。しかしそれは考えてみれば、寂庵から言われたセリフだけにすぎない。

不安から巴は起き上がった。巴は体はあまり丈夫なほうではなく、よく生理痛に苦しめられることがあった。その日はたまたま、その日であった。夜中に布団から起き上がり、手許の燭台に火をつけると、巴は武家屋敷の廊下を静かに歩き出した。庭が見渡せる廊下まで出たときだった。

 

「ねぇちゃん、ねぇちゃん。」

 

庭の木々の間から、縁のかぼそい声がした。あやうく燭台を巴は取り落とすところだった。

「縁!どうしてここが?」

縁が駆け寄ってくるのを、巴は抱きとめた。

縁はうれしそうに言った。

「もう大丈夫だよ。俺があいつらに言ったんだ。ねえちゃんは、証拠の品を持ってるって。それで出るところへ出れば、ねぇちゃんと婚約したから清里さんが殺されたというのは嘘だって、奉行所に言えば納得してくれるって──。」

「縁・・・・。こちらへ来なさい。」

巴はあわてて、縁を廊下の隅へと導いた。

そこで巴は諭すように言った。

「あなたは敵の手から逃げてきたんでしょう?あの人たちは悪い人だと思うの。」

「だって、そう言ったんだぜ、その、葉霞さんが・・・・・。」

「葉霞さん?」

「そうだよ。すごく強い女忍者さ。なんでも知っているんだよ。その人がそう言ったんだ。葉霞さんは、こっちの御頭に率いられたやつらのことも知っていてさ。若頭の蒼紫って野郎がねぇちゃんを以前に見ていたことがあるって言ったんだ。ねぇちゃんは、そいつに以前から狙われていて、今だまされてるよ。」

「どういうことなの?」

「葉霞さんは、その、若頭と寝たことがあるって言ってた・・・・どういう意味かな?俺よくわかんないけど・・・・。知ってるって。」

「縁、黙りなさい。」

巴はそこまで聞くと、縁に厳しく言った。

「蒼紫さんたちは、いい人たちです。あなたも助けようとしていたのですよ。」

縁は駄々っ子のように言い返した。

「そんなはずねぇよ!ねぇちゃんが、奉行所の命令で吉原で働いていたのを、邪魔しに来たんじゃねぇか。」

「縁、そうではなかったでしょう。一体あなたは何を言ってるの?」

巴は唇をかんだ。縁はどうやら、葉霞という名前の女忍者に手なずけられたみたいなのだ。しかも縁の話では、その葉霞という女は蒼紫とそういう仲みたいなのだ。巴はふらり、と目がくらんだ。何故蒼紫を信じようと思ったのだろう、と思った。しかもガラス石は今、蒼紫の手にある。巴は念のために尋ねた。

「縁、証拠の品というのは、その、緑色の光るガラスのことですか?」

「うん、そうだよ。それさえあれば、許してもらえるって。」

「今、私の手許にはありません。」

「ええっ、なんでだよ。」

「蒼紫さまに預けました。」

「えっ・・・・・なんだって?なんでそんなやつに渡したんだよ。あれかあさんたちの形見なんだぞ!」

「わかってる・・・・わかってるわ縁。でも、これには事情があるの。」

と、そこまで巴が言ったときだった。

 

「女、説明ご苦労さまだな。私たちと一緒に来てもらおうか。」

 

と、声がして、黒い影が数名庭に降り立った。

笹葉霞の配下の者たちだった。そしてその中心に、葉霞が立っていた。

「上役の頭の固い連中を、説得するのには骨が折れたよ。あんたさえこちらの物になればいいのにさ。この・・・私の持っているガラスの破片と対になっているあんたの物、それが必要なだけさ。」

巴は目を見張った。女は漆黒の長い髪をしていて、冷ややかな光を目に宿していた。

「あなたが、葉霞・・・・・。」

「そうだよ。あんた、婚約者が死んだのはみんなあんたのせいさ。ま、長州の男に斬らせたんだがね。幕府が。」

「そんな!」

「まわりくどいやり方をするのが幕府のお役人たち・・・・あんたも覚えておくんだね!さあ、こちらに来るんだよ。弟の命が惜しければ・・・・。あんた自身の命もだ。」

巴は縁をかばうようにして、縁におおいかぶさった。

「弟と私をどうする気なのです?」

葉霞は笑って言った。

「出るところに出たら、後は用済み・・・。というか、あんたたちがそのままで生きていたら困るのさ・・・・・○○藩と幕府がその、裏で協力して光るガラスを作っていたとわかれば、薩摩がだまってはいないのさ。倒幕のための証拠品がひとつそろうことになるんだからねぇ・・・・。そうだろう、朱膳のダンナ?」

「ああそうだな。」

今度は木陰から、一人背の高い男が出てきた。手には長刀を手にしている。葉霞は朱膳に言った。

「まだ殺すんじゃないよ。縁、ねえさんをうまくおびきだしたじゃないか。誉めてやるよ。ま、その働きさえあれば、私たちとうまくやっていけるかねぇ。女、素直になるんだ。」

巴は叫んだ。

「いっ、嫌です。あなたたちには絶対に渡しませんから。そのガラス石を使って、また悪事を働くんでしょう?」

葉霞は答えた。

「悪事だって?私たちは、あんたたちを幕府の追及から救ってやろうとしているのがわかんないのかい?」

「まったくバカな女だ。」

横に立つ朱膳も笑って言った。しかし巴にはわかっていた。この者らにあの石を渡せば、寂庵の言うように、この危険なガラスを誰かが製造するのを再開するはずなのである。それはいけないと巴にはわかっていた。その話をしたときの寂庵は本当につらそうであった。また、蒼紫も「危険だ」と言ったのはそれに違いなかったのである。

──でも、大丈夫。私はどうなっても、あのガラス石は蒼紫様が持っておられます。

巴はそう思った。

「弟を返していただきます!」

巴はそう一声言うと、縁の手を引いて屋内へとだっ、と駆け出した。

「ちっ、追うんだっ。この屋敷の中を、あたしたちが知らないとお思いかい?」

葉霞はそうどなると、腰の刀を引き抜いた。しかしその瞬間───。

苦無が三連、葉霞の頬の横すれすれに飛んで木の幹につき立った。

「──蒼紫っ。」

葉霞は叫んだ。

「そこかいっ。」

葉霞はあやうく剣を交差させた。蒼紫が二刀を手に向かってきたのだった。

「やはりあの女が大事なのかいっ。」

激しい斬り合いが起こった。その間にも葉霞の手下の麗月たちが、屋敷の中に入っていく。そこへ蒼紫側の般若と式尉たちが、それぞれの武器で立ちはだかった。

「癋見に猩々、巴と弟を確保しろ。」

蒼紫が葉霞と渡り合いながら、癋見に言った。

「ひぇっ、わかりましてでござる。」

あわてて答えた癋見と猩々は屋敷の奥の襖を蹴破った。巴たちはその間、座敷の中庭の隅に息をひそんで隠れていた。

「あそこだ!」

猩々が言うより先に、葉霞の手下の者の三人が巴たちを取り囲んだ。

「さて、女ども、私がその女に引導でも渡してやるかな。」

剣を抜いた朱膳が、女たちの輪の中心にいる巴に近づいていた。朱膳は言った。

「圧倒的不利じゃないか。割り印の鉱石は持っているんだろうな、女?」

巴は縁を抱きかかえて守りながら、朱膳に答えた。

「知りません。あなたに渡す物は、わたくしにはありません。」

「ほう。殊勝な物言いだ。○○藩の幕府よりの朱印状を隠している金庫の鍵、貴様は持っているはずだが・・・・。」

「・・・・・・・・。」

巴は無言で相手を見ている。庭のほうで蒼紫が葉霞と渡り合っている。わたしも何かしなければ、と巴は思うのだが、縁を守ってかばっている今、それは不可能である。このまま私はこの男に斬られるのだろうか───。でも縁を守れば本望だ。巴はそう思った。───その時。

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挽歌 (三)

「そのガラス石だが。俺に預からせてくれないか。」

声に巴ははっとした。蒼紫がいつの間にか、彼等の座っている板敷きの隅に立っていた。

巴は蒼紫に会って以来、その顔を見るとドキリすることが多かった。彼は、思いたくないが背格好や顔立ちが亡くなった清里に少し似ているのである。清里よりも頭ひとつ高いのが蒼紫であった。そして、清里は蒼紫ほど陰気で美形な青年ではなかった。

──不埒な・・・・。

巴はそんな自分を、心の中で責めていた。ただ、蒼紫に橋げたの下で助けてもらったことは、今でもはっきりと巴は覚えている。まさに巴からすれば神業のようであった。橋の上の男の投げた縄は、縁だけでなく巴にも巻きつこうとしていたのである。その一瞬の間隙を抜いて、蒼紫は巴をさらったのである。蒼紫の失態とこの寂庵は憤ったが、巴にしてみれば、それだけの働きをしてくれた蒼紫という人は、命の恩人に間違いなかったのである。

巴は少し頬を赤らめながら、蒼紫に石の入ったぽち袋を胸から出して差し出した。藍色の布地に、刺し子で花の模様が細かく入っている。口には赤い縄編みの紐と鈴がひとふりついていた。どこから見ても、ただの子供のお守りのようなものであったが、蒼紫は一瞬目を見張るようにした。彼はその何の変哲もない袋に、何か見覚えがあったようなのである。しかし蒼紫は無言で受け取った。中を蒼紫はあらためた。緑のガラスの破片が出てきた。

蒼紫は日にかざしてみたが、昼間の光では発光などしない。可憐な小さな葡萄の房が、文様で浮き上がっていた。何かの瓶の破片のようであった。

さらに袋を振ってみると、中から鉄錆びの浮いた鍵がひとつ出てきた。

「葡萄の模様か。海外への輸出品かのう。それとその鍵は、大切なものみたいじゃの。」

寂庵が横あいから言った。

奉行所ではこれのことは聞かれなかったそうじゃな。」

「はい。たぶん、知らなかったのだと思います。」

「うむ。ま、そうかも知れんがな。やつらの腹の底はわからんからな。」

寂庵はそううなった。蒼紫は冷静に言った。

「たぶん研究した書類入れなどの鍵だろう。持っているだけでも危ないものだ。」

蒼紫はそう答えると、それを服の中にしまった。

「確かに預かっておく。」

「はい。」

「いずれ必ずあなたに返す。今は危険だ。」

蒼紫はそう言うと、向こうに行ってしまった。

巴は口の中で「あ」と言ったが、元来声の小さい巴の声は、蒼紫には聞えなかったようだ。

「あの方が若頭・・・・というのですか。」

巴はしばらくして寂庵に聞くと、寂庵は顔をほころばせた。

「名を四乃森蒼紫と言うてな、少々暗い男じゃが、あれは誠実な男じゃ。心配めさるな。ここにいる、若頭付きの下働きは、みんなあの男の味方じゃよ。」

「そう・・・・ですか。」

巴は少しはにかんだ表情になった。蒼紫と自分をつなぐものができたのが、彼女はうれしかったのである。

──清里の時はこんな風に思ったことはなかったのに。遺品のかんざしをもらった時も・・・・。

そう思うと、自分の心の動きが巴はよくないと思うのだった。あの遺品をもらった時、どうしてうれしいと顔に出さなかったのだろう。ただ、「ありがとうございます」と目を丸くだけしたのだろう。

──それは、私が清里を愛していなかったから。

と思うのが、巴はとてもつらい。もしそうだとすれば、自分は人非人だと思う。自分が冷たい心の持ち主だと思うのが悲しい。しかし、巴の心は波立たなかったのは事実だった。そして、今蒼紫には心がさざなみ立つのであった。

寂庵はそうした巴の気持ちがわかるのか、一句芭蕉の句を読み上げた。

「『かさねとは 八重撫子の名なるべし』 ───じゃな。おっとこれは弟子の曾良の句じゃ。芭蕉は───『しばらくは 滝にこもるや 夏の初め』 ───じゃな。あんたもしばらくはここで休んでおりなさい。上のほうの騒動が静まってから、弟と一緒にこっそり旅に出ればいい。これも宿世の縁と思ってな。」

「はい・・・。」

巴は寂庵の心遣いが身にしみてうれしいと思った。

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挽歌 (二)

そのころ、巴は小早川から江戸城近くの御庭番衆の番舎のほうに居を移されていた。小さな中庭がある、小ぢんまりとした邸宅である。真ん中に何部屋かの道場と茶室を備えている。巴はそこの、奥の間に通されていたが、縁についての質問には誰一人として答える者はなかった。ただ、彼女を救出した般若や癋見、猩猩たちとは、剣の練習をするように言い付かったので、打ち合いの練習はしている。蒼紫は姿を見せなかった。そして、あの声の老人も同様だ。ただ、寂庵は巴の身を心配してくれていた。今日も稽古場に彼は来ていた。しかし寂庵は稽古はつけなかった。自分があれほどの手錬であるのを、寂庵はどうもいいものと思ってはいないようなのだった。巴の稽古についても、眉をひそめた顔で見物していた。

「寂庵さん。」

巴は着物の袂を直しながら、見ている寂庵に言った。

「寂庵さんは、稽古はつけてくださらないのですか?」

「ああ・・・・あんたはそこそこ腕が立つからな。それより・・・・。○○藩にいたという話は本当かね?」

「ええ・・・・江戸に来る前にはその藩にいました。父は最初は瑠璃波硝子の職人の仕事をしていました。」

「そのガラスの破片か。あんた、それは大切にしまっておいたほうがいい。」

「はい。」

巴は本当は縁の消息を知りたいのである。じりじりと焦がれるようなその思いがあるのを、じっと耐えて御庭番衆の言うままに道場で修練に励んでいるのだった。きっとなんとかしてくれるはずだ、と巴は思っている。私を救いに来た人たちなのだからというのが、その理由なのだが。

寂庵は道場の板敷きのへりに座って言った。巴もそこに腰をおろした。寂庵は尋ねた。

「婚約者の清里明良とは、そのころからの幼馴染かね?」

「はい・・・・彼とは江戸に来た時に知り合いました。いい人でした。」

「いい人か・・・・。で、あんたはその仇を討とうとしている。」

「違います。私は幕府の役人に言われて・・・・奉行所の方たちでしたが。偵察を働くように言われたのです。」

「うん。じゃがこの御庭番衆の御頭も、あんたを勘定方に突き出すつもりでいたんじゃよ。」

「どうして今は、この館に?」

「その、石じゃな。あんたは持ってないことになっとる。わしがそう言えと蒼紫に言った。」

「蒼紫?」

「若頭じゃよ。あんたはそんな石は持っていないことになっとる。」

巴はびっくりした。

「では、絶対に私はこれを持っていることを、誰にも見せてはならないのですね?」

「そうじゃな。そうしないといけないじゃろう。」

寂庵はそういうと、目をしばたかせた。

「その石は自然に光るのじゃろう?」

「はい。仕組みについては知りませんが・・・。」

寂庵は大きくため息をついた。

「それをアメリカに輸出しようとしたやつがおるんじゃ。失敗したがの。そのガラスを吹きガラスで作る際には、鉱毒が体内にたまるんじゃよ。恐ろしい光じゃ。それで精錬所は荒れた。最後には放棄され、関係者は放遂された。あんたのオヤジさんはその一人じゃよ、おそらくな。」

巴は目を丸くした。

「そんなことをどうしてあなたさまが?」

「わしは幕府の蘭学所に勤めていたこともあるんじゃよ。そこでも研究されていた・・・・洋物の事物でらんぷがあるじゃろう?あの代わりにならんかと言うてな・・・・・。」

「はい。」

それは巴にもかすかに思うことがあった。いなくなった父の研究。母は、自分を連れて雪山の峠を越えていった。幼い頃のその記憶────。

「それで父は・・・・海の向こうに旅立ったのでしょうか・・・。」

巴はやっとのことでそれだけ言った。寂庵は答えた。

「いなくなったあなたの父親の消息か。それは残念ながら、わしにはわからん。ただ・・・・あんたのことだが、それが関係して今この屋敷にかくまうことにしている。いずれあんたは、東北にでも弟と旅立たせるつもりじゃ。」

巴ははっとしたが、勤めて冷静に言った。

「北に逃げるのですか。」

「そうじゃな。芭蕉のたどった道じゃ。あんたには気の毒じゃが・・・・・。その○○藩がそのガラスを作っていたという確証が幕府は欲しいんじゃよ。ご禁制の品じゃからな。そして、幕府もその研究を再開したいと思っている。欧米に高く売れるのが、先ほどの黒船の騒ぎでわかったからな。あちらの国ではそのガラス製品の愛好家が結構いるそうなんじゃ。だから、あんたのその破片だけでも、幕府には重要なものなのじゃよ。」

「そうですか・・・。」

と、そこへ式尉がやって来た。

「おお、式尉、おまえも一言言ってやりなさい。おまえが薩摩藩からこの御庭番衆になったいきさつじゃろ。」

式尉は鷹揚に答えた。

「ああ・・・・・あの幕府ご禁制のガラス食器ですね。」

「そうじゃ。薩摩切子のガラスというと、薩摩藩の独檀場だからのう。おまえさんもそれを探るために、江戸城に忍びこんだんじゃろう。薩摩藩では密貿易で、たくさんガラスを輸出していたからの。」

「ええ、そうです。若頭に倒された時もそれをさぐっていたんです。あんたもその縁者だから、若頭に助けるように言われたんで、あの場にいたんですよ。」

巴はやっと光明が見えてきた気がした。

ただ、ひとつ気になることがあった。

「夫になるはずだった清里ですけど・・・・まさかそれに関係して京で斬られたのでしょうか。」

「それはわからんよ。」

寂庵は言った。

「ただおまえさん、その破片を持っていて、しかも清里殿の仇という負い目があるのを、幕府が見過ごすとは思えん。あんたに何かをやらせるかも知れん。わしたちは、それを阻止したいのじゃ。あんたには自由にこの地から離れてほしいんじゃ。」

「お話、わかります。私もそうしたいのです。ですから、弟の消息を早く───。」

巴がそう言った時だった。

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挽歌 (一)

巴が小早川の療養所に世話になっていた頃―――。

縁は、千住の近くの古寺の境内にある松の樹の幹に、縄でくくりつけられていた。彼をさらって来たのは、油櫛蝋外(あぶらぐしろうがい)と言い、片目の男である。今、その横にはあの、蒼紫と戦った女忍者の葉霞と、あともう一人、酒禍上朱膳(さかがみしゅぜん)という男がいた。総髪の背の高い男で、長い大刀を腰に挿していた。

縁は泣き叫んでいた。

「はなせーっ、はなせーっ、この野郎!はなしやがれーっ」

「よくしゃべる小僧だな。」

朱膳は、うんざりした調子で葉霞に言った。

葉霞は、腰の刀を引き抜き、縁の頬にぺたりと押し付けた。

縁は刀にびくりとし、静かになった。

葉霞は面白そうに言った。

「ねえさんを取り戻したいかい?」

「おまえらが、ここに連れてこなければ、俺はねえちゃんと・・・。」

「はっ、そう思うだろうねぇ。いいかい、私たちはおまえのためを思って、ここに連れてきたんだよ?」

縁は言った。

「だったらこの縄を解けよ!なんでおまえら、俺を縛るんだよ。」

「仕方がないだろう?そうでないと、おまえは逃げてしまうからね。いいかい。ねえさんは、幕府に狙われているんだ。あたしたちは、それを阻止するべく立ち回っているんだよ?ま、おまえに言ってもわからないだろうがね。」

葉霞はそう言うと、忍者服の中から小さい緑の光る破片を取り出した。

「おまえはこれを見たことはないかい?」

縁は目をぱちくりさせた。やはり子供である、誘導尋問を受けているとは思っていない。尋ねられるまま縁は口にした。

「ねえちゃんの持っていた石と似てるな・・・。なんだそんなもん。」

「おまえのねえさんは、これを持っているんだね。それだけ聞けば十分さ。ま、油櫛さまが、おまえしかさらえなかったのは、残念至極と言ったところかね。」

油櫛は言った。

「おいおい。俺が来なけりゃこのふたりはそのまま、幕府の役人に面通しされているところだったんだぜ。」

「それは困るからね・・・・。そこはダンナの働きがあってこそ。ただ、女を連れてこられなかったのは、本当に残念だ。」

それまで黙って聞いていた、朱膳が横合いから言った。

「それはしまっておけ。大切なかけらだ。藩のやつらがそのような品を隠れて作っていたという証拠の品だからな?」

「そうね。」

葉霞はそう言うと、石を元通りのところにしまった。

油櫛は縁に言った。

「小僧、何か剣を使えるのか?」

縁は答えた。

「す、少しなら・・・・。」

「だったら、幕府の役人どもからねえさんを盗みだせ。今おまえのねえさんは、御庭番衆に囲われている。」

「御庭番衆?」

「幕府直属の忍者集団だ。」

「おまえはちがうのか?」

「ちがうとも。ま、関係はしているがな。では縄を切ってやる代わりに、俺たちの言うことを聞け。悪いようにはせん。」

縁は迷った。この者たちの気配には邪悪なものを感じる・・・・しかし、姉の巴の消息は、この者らに尋ねるほかないそうだ。しかも姉の持つ石が関係しているのだという。縁は答えた。

「わかった・・・・・俺、おまえらの言うことを聞く。ただし、ねえちゃんをどうこうしようっていうんなら、貴様たちを容赦しないぞ。」

「ははは、威勢がいいことだな。」

縁は自分が完全に子供扱いされていると思った。しかし、朱膳らは縄を切ってくれた。

「さて・・・・・おまえ、連絡係はできるかい?剣は使えないようだが。」

葉霞はにやりと笑って言った。

縁は答えた。

「うん。」

「じゃあしばらくは、この寺にいな。そのうち、用があるならおまえを呼び出す。勝手に逃げようなんて算段はしないことだね。麗月。」

葉霞が呼ぶと、松の上からひらりと黒い影が降り立った。

「お呼びですか。」

縁の前に、忍び装束の女が一人立っていた。

「おまえ、この小僧の見張りを頼むよ。私たちは、ちょいと野暮用があるんでね。」

「承知しました。」

葉霞、油櫛、朱膳の三人は、縁からはなれて寺の山門から出て行った。

縁は自分も出て行こうとしたが、すぐに麗月の手裏剣にさえぎられた。

麗月は言った。

「ぼうず、おとなしくしていないと命の補償はないよ?」

縁は唇をかみ締め、麗月に従って寺の建物の中に入った。

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爪牙 (六)

小石川の療養所は、隅田川からかなりの距離があった。途中、自分はどうしてこの者たちと一緒に歩かなければならないのだろう、縁はどうしたのだろうと、巴は不安に思った。しかし、奉行所に帰るのは、縁を取り戻すのに得策とは思えなかった。町並みの真ん中に江戸城天守閣が見えてきた。小石川からは見えるのだった。巴はそのころにはこの者らは、おそらく御庭番衆ではないかと検討をつけていた。

───私の持っているもの・・・・あの小石の入った袋・・・・父と母の形見の品ではないか。

巴はそれも思い当たった。どうしても持っていなくてはならない、人前に出してはならない、と固く母から言い渡された、小さなぽち袋に入ったそれは、緑色の不思議な石であり、暗がりに置くと自然に発光する石だった。ただその色はあまりにもどぎつい緑色なので、巴はあまり好きではなかった。なぜこんなにもこの石は光るのか。巴はいつもそう思った。見るたびに不吉な感じを受けて、父が海の向こうに行ってしまい、母が病死してしまったのも、みんなこの石のせいではないかと巴は思ったりもするのだった。

療養所について、寺のような建物にかくまわれた巴は、彼等御庭番衆たちに布団に横になるように勧められた。巴は疲れていたので、布団に入ったが、自分ばかりが縁を置いて休むのが悲しくなり、枕を涙で濡らした。御庭番衆の者達は、すぐに退出し、巴が泣いているのに気づいた者はいなかった。

ただ、部屋の上がりかまちでこのような会話が交わされていた。

「蒼紫、どうして回光院に連れて来なかったのだ?幕府の役人が待ち構えていたのに。」

「手間取りまして。弟を拉致されました。女も怪我を負い、疲れております。」

「なるほどな。それは失態というわけだ。しかしわしの命令を勝手に変えるとは何事じゃ。上様にご報告したい事柄があったのに、これではまた一から振り出しに戻りそうじゃ。女の身のあらためは明日にでもするとしよう。」

老人と蒼紫の短い会話───それは、すぐに廊下を歩いていく足音とともに遠ざかった。

───寂庵さんではないわ。誰だろう?あの声は・・・・・。

それが、先代御頭と呼ばれる人物の声だと知ったのは、巴はもっと後のことであった。

───縁、無事でいて・・・・お願い・・・・!

巴はただ今は、一人で泣くよりほかなかった。

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爪牙 (五)

巴の乗る舟は、南千住のカーブのあたりにさしかかった。巴は蓑をかぶって弟と舟の中で息を潜めながら、どこかで斬り合いの音を聞いたような気がした。身が縮こまった。この老人は自分をどこかに売るつもりはなさそうだ。しかし、このような世界に身を置いていて、生きた心地がしないのであった。老人の短い言葉では、隅田川から舟を乗り換えて、どこかに逃がしてくれるのだろうと思った。そして遠いどこかで、籍を変えて自分は生きることになるのだろうと思った。思えば幼い頃からそんな予感があった。巴にはそれがつらかった。

舟がカーブから千住大橋に向かって促行を続けているときだった。突然、両岸に泊めてある舟がこちらに向かって動きだした。老人は「むっ、これはいかん。」と小声で言った。しかし努めて舟を静かに操っていた。巴の乗る舟の後ろに、二艘の舟が忍び寄ってきた。いきなり、その菰をかぶったその舟の中から槍がこちらに向かって、ごん、と突き出した。しかし狙いは老人の方ではなく、巴たちのほうであった。狙いはしかし、間一髪ではずれた。老人がそう舟をせわしく櫂で操ったのであった。しばらく槍と巴の乗る舟との格闘が続いた。老人は最後に槍を櫂でたたいた。「その女を置いていけ・・・・。」と声がして、夕闇の中で数人の男が槍の出た舟から立ち上がった。

「この寂庵を見知り置いてほしいの。」

と、老人は言い、櫂を櫓に置き頭に被った笠を河面に放ると、腰の刀を引き抜いた。舟はまだ上流に向かって慣性の法則で流れている。しかし、ここで足止めを食らうと、このままでは千住大橋で絡め手に捕られてしまう。寂庵は焦った。蒼紫は何をしているのかと思った。

ばらばらと数人が巴の乗る舟に飛び移った。寂庵はそれを剣でなぎ払い二人ほど水面下に突き落とした。ざんぶと音がして、巴の乗る舟が激しく揺れた。巴は立ち上がろうとした。しかし、寂庵が「今立ってはならん!」と叫んだ。「ねぇちゃん、ねぇちゃん」と縁が巴にしがみついてきた。巴はそれをかばった。水しぶきが激しくあがった。その時、縁の背後から小さな影が空中に飛んで、手裏剣のようなものを続けさまに投げた。

「ばかやろう!さんぴんども全員死刑にしてやるぜ!」

「ばかものっ、騒ぎを大きくするでないっ。猩々っ。」

寂庵は死闘を繰広げていた。三艘の舟の間を飛び移りながら、ほとんど軽業師のように敵の男をなで斬りにしていた。次々と男たちは、河底に沈んだ。しかしその騒ぎはもう、千住大橋付近で見えていたようであった。

「猩々、棹を戻せっ、船を逆手に押し上げるんじゃっ。」

「わかったよ。じいさん、後のやつらを頼むぜ。」

寂庵は一艘の船に乗っていた狼藉者をすべて川に沈めると、猩々と呼ばれた小男にすばやく命じた。まだもう一艘の船が追いすがって攻撃をしかけてきていた。カィン!!!寂庵の持つ刀がそれをはねた。男は鎖分銅を投げてよこそうとしていた。男は言った。

「その女はさる場所で必要なのでな・・・・・老人、そろそろ疲れてきたところではないか?」

「バカを言うな。貴様には吹き矢で目潰しでどうじゃ。」

「女を置いていけと親切に言っているのにな。ムッ、ころあいが来たか。」

猩々はその時叫んだ。

「千住の大橋だ!ねえさん、岸をよく見てな。若頭が助けに来るぜ。」

橋の欄干が迫っていた。呼ばれて巴は、この漕ぎ手は、ずいぶん小男なのに巧みに櫂を操っていると思った。

その時岸に人影が数人動くのが感じられた。

「若頭!」

その猩々の叫ぶ頭をかすめて、その数名は楔を放っていた。

「ううっ。」

先ほど分銅を投げようとしていた男たちは、顔に楔が突き刺さって、次々ともんどりうって川面に落ちた。

「へへっ、さんぴんおととい来いってんだ。な、火男?」

「癋見、おれも行くぜ!」

火男と呼ばれた太った男がよたよたとこちらに向かってくるのを、さっと前に出た般若の面の男がさえぎった。

「しっ、早くしろ、おい、女と子供。こちらの岸に向かって早く飛び移れ。」

巴はその般若の面にぎょっとしたが、もはや言う通りにするよりほかないので、般若が手をあおぐのに「はい。」と鷹揚にうなずいた。

そして縁の手を引いて船から跳ぼうとした、その時であった。

 

「────その娘と子供の命はあずかるぜ!」

 

橋の上でだれかがしゃべって、こちらに紐のようなものを投げるのが見えた。

「まずい!」

誰かが一声、鋭く叫んだ。巴ははっ、として手を空に伸ばした時、誰かに抱えられて自分が向こう岸に降り立っているのがわかった。

どうやら橋の欄干の下部にひそんで巴らを待っていたようなのである。

しかし。

「縁!縁!」

巴は思わず絶叫した。

「ねえちゃん!」

縁の左足にその紐のようなものはすばやくからまって、男はそれをさっと橋の上まで手繰り寄せた。まるで手品を見るかのようであった。

そして縁が大橋の上に立っている片目の男に抱きかかえられて、橋の上をあっという間に北の方角に向かって遠ざかっていくのが見えたのだった。

縁が奪われたのだ。

「なんたる失態。」

寂庵が目をいからせてつぶやいた。しかし欄干の男の投げた紐による攻撃はあまりにもすばやく、防ぐことは無理なことであった。巴が逃れたのは間一髪というよりほかない。

「般若、女を頼む。」

巴を抱えて岸に降り立ったのは、巴の知らない蒼紫その人であった。蒼紫は巴を岸に立たせると、縁の奪われた方角へ行こうとした。

しかし、寂庵がそれを止めた。

「待て。今は追わぬほうがよい。あの者らは、役に立たなければあの子供の命を奪って、すぐに路傍に放り出す。子供の命はあの者らに預けるよりほかない。」

「何かに使うというのか。」

「だからその女と交換とか何か言ってくるのを待つのじゃな。でなければ、女の握っている証拠品との交換じゃ。」

巴は必死で言い募った。

「あの、私が何か持っているというのですか。」

寂庵は重ねて穏やかに言った。

「まあそんな昔のものは今では持っておらぬと思っているが、見た者もいるのでな。とりあえずあんたは小石川の療養所で安息すればよかろう。蒼紫、そこまで連れて行ってやりなさい。」

「はい。」

蒼紫はそれだけ答えた。

巴は思わずまじまじと蒼紫の顔を見た。それはたいそう綺麗な人だった。巴はそう思った。しかし───────。

先ほど夕闇の中で戦っていた音は、この者だったのかも知れない。

彼等は皆濃い藍色の忍び服を着ていた。それは明らかに日常の者のいでたちではなかった。巴はやはり恐ろしいと思い、あわてて目を伏せるようにした。

「では、参りましょう。」

若頭と呼ばれた蒼紫がそれから黙っているので、横合いからにこやかに猩々が言った。巴は静かにうなずいた。

彼等は巴について何かを知っているのであり、だからあの吉原にまで巴を助けに現れたのだ。それが何かは、まだ巴は知らなかった。

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爪牙 (四)

道は平坦であった。しもた屋の家々は静まり、軒を連ねていた。

突然家がまばらになって、葦原がしげっているところに木をつらねただけの船着場があった。

老人は、「そこから乗りなさい」とそこに泊まっている一艘の手漕ぎ舟に巴が乗るようにうながした。

そこへ、思いもかけぬ者が向こうから、吉原の方向から走って来た。

縁であった。

「ねぇちゃん、ねぇちゃーん」

と、誰か小さい者の背に背負われて、あの縁が走ってくるではないか。

巴は思わず涙がこぼれた。努力は報われたのだ。奉行所の「裏」の庭で、あのような者たちの真似事をさせられた自分、「上役」に囲まれて、息が詰まりそうな苦しかったあの毎日。それもみな、この弟のためであった。

縁はその者の背から下ろされ巴の手をひいたが、老人が短く叱責した。「叫ぶでない!早く乗れ」と言った。巴は弟と船に乗った。老人は最後に乗ると、船着場の木を足で蹴って、棹を出した。そしてこぎ始めた。

「蓑をかぶれ!」

老人はこぎながら小声で低く言った。

巴はあわてて弟と船に置いてある荷物の間にある人足用の、数枚置いてある蓑をかぶって息を殺した。船は隅田川の南千住の横の、東に湾曲した場所をのぼりはじめていた。ぎぃーっ、ぎぃーっ、と櫂を漕ぐ音だけが水面にきしんだ。夕闇の隅田川は静かに流れている。巴には短いが長い時間であった。

 

 

 

 

その同じ隅田川の一角。巴らの乗った舟が出た場所から程近い北東の暗い草原で、死闘が今繰り広げられていた。

葉霞と蒼紫であった。蒼紫はすっかり成長していて、ほとんど大人の男であった。

「やるようになったね。ではこれはどうだい?」

と、葉霞は腰から短剣を引き抜いた。

周りにはやはり女の忍者が数名、蒼紫を取り囲んでいる。

一人は分銅を片手でぐるぐる回している。全員、すさまじい殺気を放って蒼紫に対峙している。対する蒼紫は無言であった。剣を二本、小太刀を手に持っている。狙いどころを探られないようにか、両手とも常にゆっくりと一定の速さで、まるで念仏の舞踊をしているように動かしている。剣先はそれにつれて、いろんな方向に動く。蒼紫の目はしかし、その剣先を見ずに前方の葉霞の顔を凝視していた。

葉霞の顔は薄笑いを浮かべている。そしてそれを見ると、あわせたように、右手に持った長い太刀をおなじように動かしはじめた。一見二人とも、相手を誘っているようにも、遊んでいるようにも見える。しかしこれは死闘であった。

葉霞は蒼紫の脇を狙って第一撃を入れた。キン!という軽い音がして、蒼紫の太刀はそれをはねた。手は交差させている。そこへ分銅が飛んだ。蒼紫は後ろにパッとすり足で飛んだ。

「じりじり追いつめてやるよ。そのまま後ろの隅田川に落っこっちまいな。」

と、分銅の女が言った。葉霞はそれを聞くと、少し顔をしかめて脇の女に言った。

「麗月、殺(や)れっ。」

と言った。

「はいっ。」

麗月と呼ばれた女はやはり葉霞と同じように大刀の女であった。蒼紫と葉霞のように剣を動かそうとしている。しかし、少しその動作に緩慢なところがあった。しかし首をひねり、気合いを「えぁっ!」とこめると、蒼紫に向かって突進してきた。蒼紫はその剣をくるりと体を回転させて受け流すと、葉霞に向かって一撃を加えようとした。行過ぎた麗月と呼ばれた女が前にのめって、倒れようとしている。そこへ、鎖鎌が飛んだ。

彼女らは、葉霞配下の女忍である。「霞五人衆」と呼ばれていた。麗月、星月、壮月、霜月、朔月という五人の手錬による女性ばかりの精鋭部隊である。常日頃から、先代───ということにしておこう。この物語の最後ではそうなるだろう。その蒼紫を実質的に育ててきた老人らに対し、反抗的な態度を見せていた。しかし、葉霞はこの先代の配下の一人であった。葉霞らは先代らとそのような複雑な関係なのであった。

蒼紫は先代らの指示で今、この千住河原でこの者らの巴への追撃を阻止しているのであった。蒼紫がこれまでやってきた任務の中では、一番やりがいのある仕事であったであろう。しかし、彼の内心は複雑であった。自分がその、巴という女をそのような境遇に貶めた一端であったということを、彼は考えているのであった。

鎖鎌を使う朔月は、かなりの手錬であった。ほかの四人の動きをこの女はサポートしている。分銅の女、霜月が一番術が弱い。だから、この包囲の網を抜けるとすればそこだ。蒼紫はそう考えた。

巴の乗る舟は隅田川を出航して、すでに遡行をはじめていた。そのまま無事遡行し遂げ、千住大橋から日光街道で悟られぬようにして自分配下の者を使い北に逃がす。実は、蒼紫は先代とは違う「計画」でそう考えているのであった。先代からの指示は、吉原西にある、日光街道を下ったところにある回向院に隠まえということであった。しかし絶対にそうはさせるものかと蒼紫は考えていた。

ついに、彼の中で何かが充填充満爆発し、主客正邪転倒することになったのである。だがこれは、至極当然のことであったのであろう。この夕闇の迫る時刻が、彼の人生の新たなる分かれ目であった。しかしこの計画を失敗した場合、自分は先代に悟られぬように動かねばならぬ。できるだろうか。しかしやってみせねばならない。

蒼紫はあまり、忍びの「腹芸」が得意ではない。だから忍びの内部でも、ただの先代が育てた術専門の忍び人間として扱われている。そして「あれ」が次期御頭に昇進するのかとも陰口をたたかれていたりした。蒼紫はそうした風評を耳にするたびに、自分が人として劣っているような気持ちがして、なんとも言えない気持ちになった。なぜ人間は表裏一体に生きてはいけないのか。しかし蒼紫のいる「忍び」の世界はまさに「それ」であった。

朔月の鎖鎌が蒼紫の進路を絶つように左右に振り子のように動いている。朔月の鎌が蒼紫の膝を狙って入った。蒼紫はまるまって飛び越した。それを見て葉霞はにやりと笑い、瞬間「壮月!」と叫んだ。二本刀の壮月が、着地した瞬間の蒼紫を狙って、第一撃を入れた。蒼紫はそれを受けた。激しい斬り合いになった。

二人とも丁々発止という感じで受けている。だが壮月が押されていた。麗月が言った。「そろそろ殺(や)るかい?」葉霞は楽しそうに言った。「そうだねぇ。」葉霞は剣を構え戦っている蒼紫に狙いを定めた。

葉霞と麗月は蒼紫の背後に回って、同時に激突して剣で串刺しにしようとした。しかしその瞬間、蒼紫の姿はなかった。

葉霞は「なにっ。」と言った。あわてて星月と呼ばれる背の低い女が、印を結んだ。高い澄んだ風鳴りのような音が風に響いた。いやそれは、その場に居合わせた者だけが聞いた音だったのかも知れない。「う、うるさいっ!」と霜月、鎖分銅の女が片耳に手を当てて叫んだ。「静かにしなっ。まだそのへんにいるはずだ。星月の術で動く音を探すんだよっ。」と葉霞は小声で叱咤し、指示した。葉霞は黒髪の間から、あたりをなめるように見回した。蒼紫の姿はない。星月が印を結んだまま、膝を折り、小さく叫んだ。「蝶!」

五人の女の目に舞い狂う幻覚の蝶が表れた。蝶の動きは錯綜し、夕闇の中で燐粉が燦々と光り、見ていて目まいがするようだった。そのような幻覚術なのである。おそらく、たまたま通りかかった者には見えないかも知れない。いやその者も巻き込まれてしまうかも知れない。人間の脳波をあやつるそれは、それほどの威力であった。

数分たったようであった。葉霞の顔にさすがに焦りの色が見え始めた。葉霞は「だめか。落とせ。」と短く言った。後ろの隅田川の水面が盛り上がった。それはふくれあがり、五人の女を飲み込んだ。水面は沈んだ。水は泥の泥炭地にあふれていって、緩やかになった。「星月の術は見えていたはずだ・・・・・・・・しかし逃げたか。早く千住大橋へ!」と、葉霞の意識のような声がした。五人の女たちの姿はそこから忽然と消えていた。

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