暁杜

るろうに剣心 蒼紫巴 蒼操 小説ブログです。

通暁(二)

般若が付くと言うのを断り、蒼紫は馬に乗った。恵那の山にあるという葉霞たちのアジト、だがその経路は幾筋か道筋がある。どのルートにあるのか見当はつかなかった。馬を走らせている間も、巴たちの安堵が気がかりでならなかった。あの時頭目の命令を無視して、ついて行けばよかった。ただひとつ望みがあるというのは、皮肉だが闇乃武たちが巴らを捕まえたであろうということだ。闇乃武は葉霞たちと違い、頭目の命令で動いており、幕府の命令で巴たちを間者として使う使命で動いている。だから辰巳がああは言ったものの、その場で命まで狙うことはないだろうと思った。それだけが一縷の望みであった。

 

そのころ巴たちは闇乃武たちとすでに街道筋で遭遇していた。精鋭の二名が抜けた御庭番衆たちだったが、彼らはよく戦ったのだが、にもかかわらず敗北したのは、ひとえに縁のせいによる。縁は、実は葉霞に拉致されていた寺で、辰巳らとも会っていた。姉を取り返したくば、我々の言うことを聞けとさんざん言われていたこともあり、追手の中に葉霞らよりも優しく、見慣れた顔を見出した彼は、彼らが手招きしているのを見て、そちらへと姉の手を引き走り出したのである。辰巳らはそのような中立の者たちであり、またどこへでも顔を出す蝙蝠のような連中なのだった。御庭番衆と言っても一皮むけば下働きはそのような烏合の衆の集まりであり、であるからこそ蒼紫は頭目から厳しく制圧するように普段から言われていたのだった。縁は辰巳の顔を見て、

「あの人たちは大丈夫だよ。」

と言って巴の手を引いたのだった。巴はまろびでる縁を止めようとして、突き転んだ。

「縁、行ってはだめ・・・・・!」

巴は叫んだ。なぜこうなってしまうのかと思った。

その時他の者たちと交戦していた寂庵だったが、辰巳が縁を人質に取ろうとしているのを見て、すかさず斬りこもうとした。しかし。

「てめぇはすっこんでな、爺さん!」

寂庵は声もなく絶命した。中條に前から斬られ、辰巳に後ろから袈裟懸けに斬られていた。他の御庭番衆たちも、闇乃武をはじめとした忍びたちに斬られていた。多勢に無勢であった。蒼紫、大丈夫か、というのが寂庵の最後の意識であった。彼は最後までこの不遇の若者の身を案じて死んだ。

「寂庵さん、あ・・・ああ・・あ・・・。」

巴は寂庵の遺体にすがって泣いた。それを辰巳は黒髪をつかんで乱暴に引き起こした。辰巳は巴に言った。

「なるほど。これはいい女だ。まだ殺しはせん。役に立ってもらうからな。」

「何をなさいます・・・・・。」

「あそこにいるのはあんたの弟だろう。子供だがいい連絡係になりそうだ。これからわしらと京に行ってもらうぞ。」

「いやです・・・・。」

「拒否はできんぞ。貴様は御庭番衆に近づきすぎた。その責を負うてもらう。」

「硝子のことで私たちを・・・。」

「硝子?そんなものはわしは知らん。ただおまえが亭主の仇討ちをするのを手伝ってやろうというだけの話だ。」

その言葉を聞くなり、巴はとっさに舌を噛んで死のうとした。しかしその瞬間派手に辰巳に掌で頬をはたかれた。辰巳は言った。

「貴様。殊勝に何ほどの手柄も立てずに死ぬつもりか。それでも武士の娘か。今日び町娘でも親の仇を討つのが当たり前、犬畜生にも劣るわ。弟の身柄も考えた上でのことか?」

縁は横から巴にあわててとりすがって言った。

「姉ちゃん、こんなとこで死んじゃだめだぞ。清里さんの仇を討つんだよ。この人は正しいことを言っているんだぞ。」

巴は無言で抗議の姿勢で辰巳を見上げている。辰巳は容赦なく笑って言った。

「なるほど、そうか・・・貴様あの男と結縁でもしたのか?それでか。では言ってやろう。その蒼紫とかいう若組頭の身を助けたくば、わしらと行動を共にすることだ。あの男は頭目の副長のような者だからな。おまえは知らないだろうが、次期頭目の席次に上がっている男なのだよ。それがああした任務につかされている・・・理由はわかるか。」

「・・・・・・。」

「貴様の存在であの男の絶対服従頭目は試したのだ。今回貴様があの男を誘惑したので、あの男は頭目に背いた。それは明白な事実だ。それで頭目は今立腹している。だから貴様はおとなく我々の言うことを聞いた方が、あの男のためなのだよ。」

巴は自分は誘惑などしていなかった、と辰巳に言いたかったがもうその言葉が出なかった。蒼紫が自分のせいで追い込まれている。その境遇に陥っている。私のせいであの方が、と思うといても立ってもいられなかった。その自分に蒼紫のためにできることは一つしかなかった。とっさに巴はそれにすがりついた。巴は静かな声で言った。

「・・・・では私が京に行けばいいのですね・・・・・。」

辰巳はうなずいた。

「そうだな。そこで間者として働いてもらう。簡単なことだ。またその女の手管を使ってもらおう。」

と言って辰巳はやれやれと腰をあげた。そして仲間の忍びたちに言った。

「もうそのへんにしておいてやれ。そいつらにはとどめを刺すな。ほうっておけ。頭目は殺すまでする必要はないと言った。仕置き程度でいいのだ。」

「あいよ。」

闇乃武の者が返事をした。

闇乃武たちは巴たちを引き立てると、その場を後にした。後には猩々たちをはじめとする蒼紫以下の御庭番衆たちの死屍累々が残された。ただ、彼らにはまだ息はあった。

広告を非表示にする

通暁(一)

同刻篠つく雨の中、傘をかぶった男が一人、湯煙のたなびく下諏訪にある旅籠の中に入っていった。連絡係だ。入り口で合言葉を言い、男は文を中の中年の男に渡した。中で男は文を見た。

「動くか。」と男は言った。闇乃武の辰巳であった。

「辰巳殿、江戸の御庭番衆からの人運びの件で?」

辰巳は後ろで手裏剣をいじっている中條に言った。

「そうらしい。ま、手はずは江戸の頭目から聞かされている。連中は碓井越えのあと、真田忍軍を襲ったらしい。やりすぎたな。この蒼紫という若組頭だが。」

「なるほど。そいつらは京で使う女を連れているのでしょう?」

「そうだ。頭目の話では、わしらが受け取る話になっとる。」

「なぜ真田のやつを殺したんです?」

「さあな。理由はわからん。わしはその女を長州に対する間者に仕立てる話しか聞いておらん。女は自分の旦那の男を京で長州藩子飼いの剣客の若造に殺された。それを落とすのに使うのだそうだ。」

中條はふーん、と言った。

「よくある話ですね。女に仇を取らせるわけですか。」

「ま、そういうことだな。幕府の連中は形から入るものだからな。女はしかしまあまあの上玉だそうだ。わしらはその教育係だそうだ。」

「据え膳は食っちゃいけねぇんですかね?」

中條は言いながら柱に手裏剣を投げた。びし、と音を立てて縦手裏剣が柱に突き刺さった。若者らしく言う中條に、辰巳は含み笑いした。

「それはだめだ。九の一の法が破れるからな。その女には、長州の若者といい夫婦(めおと)になってもらわねばならん。自分を慕う女をはべらせることで男を弱らせるのだ。呉の西施(せいし)の理(ことわり)にもあるようにな。だから、そういうことだ。」

「そいつは残念です。」

と、中條は言ったが、さほど気にしている様子でもなかった。こんなことはいつものことなのだろう。横にいた角田も剣呑そうに言った。

「女は恋仲になったらあとが面倒だ。」

辰巳は笑って鷹揚に言った。

「ああ。その女にはわしらのいい踏み台になってもらわねばな。それでは行こうか。連中がそろそろここに着くころだ。話は伝わっているはずだからな。」

辰巳らは腰をあげた。

 

 

蒼紫らは諏訪湖のほとりにまで来ていた。見晴らしが開けたところで、寂庵は蒼紫に言った。

「わしらには目がついて来ている。ここらで別れた方がよさそうじゃ。」

猩々と癋見が、道端に置かれた石を見つけた。何かのサインだろうか、巴にはまったくわからない目印だった。猩々は言った。

「東に三里の仏(ほとけ)・・・。あの丘に見えている寺です。あそこで女子供を引き渡せと言ってきている。」

「やはりそのまま旅をさせてはくれなかった。思ったとおりの展開になりましたね。」

と、式尉は言った。

蒼紫は答えた。

「刻限までに行かなければ追手が来るが、あそこには俺と般若で行くことにする。連中を片付け、任務を果たしたのち、おまえたちと合流することにしよう。」

「え、できるんですかい?そいつは大変だ。」

と、式尉が言った。蒼紫は答えた。

「おまえたちは巴と縁を守って、甲州街道の方へ抜けろ。」

「合流はだいぶ先になるんじゃねぇんですか?だって、頭目が言った葉霞らの根城の峠は、恵那山にあるんじゃねぇですか。そこまで一緒に行った方が・・・。」

「女の足では、あの山に登るのは無理だ。街道からもはずれているからな。敵の本拠地から遠ざけるには越したことはないのだ。」

寂庵は言った。

「苦渋の選択じゃな。まあわしらで守るしかないわい。しかし引き渡しが下諏訪でというのが気になる。これは・・・。」

罠かもしれんな、と寂庵は思った。蒼紫がそのように考えるのを頭目は見抜いているのではないか。しかしそれも、この蒼紫はおそらくわかっている。それでも巴らを安全な道を歩かせたいのだろう。寂庵は心中でため息をついた。

巴は相談している蒼紫らからは少し離れたところの石の上に座っていた。とうとうここまで来てしまった。巴はそう思った。横にいる縁が言った。

「江戸に帰ったらさ、俺ねえちゃんの作った手料理が食べたい。早く帰りたいよな。」

「ええ・・・・。」

縁は路傍の石を蹴って少しけんけんをした。あれから巴は蒼紫の顔を見ないようにしていた。蒼紫も自分を避けていると思った。それが悲しかった。そして江戸に帰ることができても、その先はどうなるのだろうと思った。はじめて寂庵に会ったとき聞いた話では、さらに北の東北地方に逃げる話をされたことがあった。自分はどんどん流されていくのだろうか、蒼紫から離れて・・・・そう思うと、つらくて切なかった。

寂庵たちが巴たちのそばにやって来た。

「では行きましょうか。あの向こうに見えている一里塚が起点です。そこから別れましょう。」

式尉が言った。道は、田舎なので単なる三叉路であった。江戸へ向かう道、京に向かう道と分かれている。こんな道一本で隔てられる。巴は思ったが、それが現実であった。

一里塚の前で、巴は蒼紫に礼をした。

「お世話になりました・・・。」

蒼紫は頭を下げたようだった。日が傾きだしていた。蒼紫の表情は逆光で巴にはよく見えなかった。自分の名前を美しいと言ってくれた、あの美しい人がそこに立っている。そう巴は思った。その光景を忘れないでおこうと思った。

蒼紫は巴が立って向こうに歩いて行くのを、脳裏に刻むようにじっと凝視していた。たった今俺から離れていくのだな、と思った。昼過ぎにあんなことをしなければよかった。そう思ったがその時はどうしても自分を止めることはできなかった。出来心で、と思う自分だったが、あれ以上のことができる自分ではなかったと思った。巴の心を壊さないにはあれが精一杯だった。もとより自分とは住む世界が違う。一緒にいることはできないのだ。だったら何もしない方がいい。そう勤めてきた。

頭目から命じられて、見張るように言い渡されたのが三か月前、瑠璃波硝子の件の関係者で、情報を持っている女ということだった。巴は平凡な日常にいる女だった。毎朝早い時間に起き、寺子屋に通う縁を寺に送り届け、市場で少し買い物をして帰る。むろん毎日見張っていたわけではない。幾日かおきの定点観測だった。見たところ華美な女ではなかったが、何度も目に留めているうちに、抜けるように色が白いことや、整った目鼻立ちをしていることに気付いた。女を見張れという命令を言われたときから、危ういという思いはあった。そのうち巴の家の前に「忌」の張り紙がつき、巴の婚約者が死んだということを知ったとき、自分の心の動きが喜んでいると知り、蒼紫は己れを責めた。しかしその後巴は見ているうちに、硝子の利権をめぐる騒動に巻き込まれていき、自分がそれを助けることができるようになったことは、蒼紫にとっては願ったり叶ったりの出来事であった。だがその不自然なまでの接近に、蒼紫は頭目の手の平で転がされていると思う。しかし巴をもはや思い切ることはできなかった。それであの街道沿いの雨の古家で、行動を起こしてしまった。抱きしめた巴の体は、柔らかくて温かく震えている雛鳥のようであった。それは己れの術者として幾たびも渡ってきた、剣の上での嗜虐心をあおるものであった。そういった衝動については、蒼紫はあの葉霞によって開眼されて以来、そういうものだという自覚はあったが、特に目に留めて注意していたわけではない。しかし、前夜御沙薙を襲ったとき、いつもの自分とは明らかに違う剣の入りを感じて、手練れの手ごたえがあったことはうれしいと思ったが、それらは巴には決して言えない話であった。増してやそのような理由で巴がそばにいてもらいたい、と言ったら巴は眉をひそめるであろう。頭目などは酒の席で、男は剣であるとするならば、女は男をおさえる鞘であろうと言っていた。その猥褻の意味については蒼紫もわかっていたが、本当はそうではないと蒼紫にはよくわかっていた。自分もそういった鼓舞される衝動に支配されている生き物なのだと思った。

しかしそうは言っても、蒼紫は巴が欲しかっただけなのである。自分が御庭番衆でも何でもなく、若組頭の重責も背負わず、あの巴の死んだ婚約者の立場で済んだなら、「忌」の文字をつけられたとしても構わなかったと思った。巴のために死ぬのなら平凡な凡夫の人生でも構わなかった。それぐらい蒼紫は思い詰めていた。

そのような想いで頭がいっぱいになっていたのだろう、あとから考えると迂闊だったとしか言えない選択であった。蒼紫と般若は指定された山寺に近づいてきていた。刻限は酉の刻暮れ六つ(約18時ころ)であった。寺の石段の下で、蒼紫は剣に手をかけた。明らかに上方に潜んでいる気配がある。

「御頭、私が先に。」

と、般若が言うのを制して、蒼紫は抜刀した。石段を上がって行った先に、仁王立ちの男の影が見えた。男は言った。

「連れの者たちはどうした。おまえではない・・・若造。」

闇乃武の辰巳であった。他に一名を確認した。蒼紫は無言で斬りかかった。辰巳は予想していたようであった。すぐに太刀で受けてきた。笑いながら言った。

「女を逃がしたのか、若組頭?すでに街道には探索が出ておる。ぬかったな。」

蒼紫は瞬間、激怒した。刻限まで待ってこの場に来た自分を呪いたくなった。御庭番衆の習いにあまりにも忠実であった自分が間違っていたのだった。この約束は反故されねばならなかった。それを読めなかった。蒼紫は猛攻した。辰巳は押された。その間にも般若は横で中條と応戦している。

「ぬぅっ、貴様、やるなっ。」

と、辰巳が言った瞬間、辰巳は驚いた。自分の横にいたはずの蒼紫の体が、くの字を描いて放物線で辰巳の体に剣先をかすめたのだった。蒼紫はもう着地して次の動作に移っている。この者、何という身のこなし、やはり頭目が目をかけるだけあって、ただの使い手ではない。辰巳は思った。真田の姫を導術で殺したと聞いているが、それもただの技ではなかったのだろう。

辰巳はしかし、老獪な男だった。蒼紫に「待て、待て」と言った。辰巳は言った。

「貴様のしたことは御庭番衆としては正しいことだ。ただ女を逃がしたのは浅墓だった。そういう気持ちはわからんでもないが。」

と言った瞬間、蒼紫のとびかかった剣が辰巳ののど元にかかった。辰巳を信じられないほど恐ろしい力で抑えながら、すさまじい形相で蒼紫は言った。

「・・・街道に行った仲間を呼び戻せ・・・!」

辰巳は締めあげられながら、苦笑して言った。

「無理だ。女たちの確保に働いている。わしを殺すか、いいのか、かたわれが呼子を吹くぞ。十里先まで聞こえる。呼子が鳴ったら女どもは殺す手はずになっている・・・わしが考えたのではない。貴様の頭目の命令だ。」

「なに?」

その時、古寺の大きな木立の影からあの老人が姿を現した。

「そうじゃ、蒼紫。お前の真意を知りたくてな。」

御庭番衆総頭目の老人であった。老人は言った。

「その剣を納めろ。お前がわしの下した最初の硝子に関する命令を無視せずに、この寺にまで約束通りに来たのはほめてやろう。そうでなくてはな。しかしあの女たちは幕府の下した命令に従ってもらう。おまえがどう思いをかけようと、それは無駄なこと。」

蒼紫はわななく手で、辰巳にかけた剣先をはずした。この老人には技の上ではまだ歯は立たないのだ。致し方なかった。老人は言った。

「おまえができることを今から述べてやろう。かねて言っていた場所で、硝子に関する幕府の朱印状を見つけて回収しろ。できるだけ早くだ。一昼夜をやる。できなければ、女たちは京で用立てるまでもない。その首をつなぐために努力しろ。以上だ。」

般若は思わず横から叫んだ。

「そんな無体なことを・・・・!」

老人は般若に言った。

「無体だと?御庭番衆の命令は絶対だ。その命令を破った者には相応の仕打ちをするのがわが努め。馬をつけてやる。早駆けで行くがよい。おまえひとりでな。」

そして重ねて言った。

「真田の者を殺したことも不問にするつもりはない。おまえとしては考えたつもりだったのだろうが。ではな。」

蒼紫は頭目の言葉を首を垂れて聞いていたが、どうしても一言言わずにはおれなかった。彼にはこの場では恥も外聞もなかった。蒼紫は必死に喉に張り付いた声で叫んだ。

「巴は、巴は助かるのですか?」

蒼紫の若者らしい声はしかし、頭目の老人の心を苛立たせただけであったようだ。

「助かる、だと?貴様のそのような物言い、聞きたくもないわ!」

老人はぴしりとそう言うと、付き人の忍びたちとその場をあとにした。蒼紫にとって、あまりにも残酷な結末であった。

広告を非表示にする

道行 (四)

巴たち一行は中山道を諏訪方面に下っていた。今のところはいたってのどかな道中であるが、以前と変わりなく蒼紫は無言だったし、巴はすっかり怖くなって笑顔がその顔から消えていた。碓井越えの前の時とは何もかもが違っていた。蒼紫のことは忘れるように、と前を歩く寂庵は言った。自分もこの先この人と会うことは、二度とないのだろうと思った。そう思うと、下諏訪までの一歩一歩が巴には大切なものとなった。しかしこの時の時間は同じように無情に過ぎていく。それが巴にはつらかった。引き伸ばしたいのか――だがそのようなことは到底無理なこと。また蒼紫は自分のことをどうとも思っていないようにも見えた。

私はただ、失った清里の形代がほしかっただけなのだ。そう思おうとした。しかし蒼紫は清里よりも数倍優れた人間であった。それは見ているだけで巴にはわかった。自分はないものねだりをしていると思った。そんな物欲しそうな女はきっとこの人は、と思った。自分には何の武芸のたしなみもないのにと思った。ただ少し剣術の真似事ができるだけであり、それはあの死んだ御沙薙のような女からすれば、おそらく見下されるようなことである。現に今も蒼紫の足をひっぱっている。私はこの人の生きる世界からは遠い。巴は考えた。江戸に無事戻り、日常生活の中で、私は時々この時のことを思い出す。この人のことを、誰にも言えず・・・・私だけが知っているということで。それを後生大事に囲つだけが自分という女なのだ。なんという平凡さだろう。

蒼紫らは先ほど倒した御沙薙たちも、遺体は並べて沿道にあったむしろをかけた。本当は土に埋めた方がいいんですがね、時間がねぇからと式尉は言った。それも巴には御庭番衆への意外な驚きだった。生きて動いている間は、おのおのの考えがあるからのう。それが人間なんじゃ。死ねばみな等しく塵になる・・・・寂庵は南無阿弥陀仏、と唱え手を合わせた。

「どうして蒼紫様たちがいるということを、あの時言ってくださらなかったのですか?」

巴はたまらずに寂庵にその時少し言い募った。寂庵は「それも術のうちじゃ」と答えた。

「あんたがそのようなそぶりを見せると、御沙薙に気取られる心配があった。腹芸で渡れるようでなければ立派な術者とはいえん。ま、蒼紫の場合はそれの訓練を受けておるからの。これはまあ、嘘をつき慣れているということじゃ。」

横に立ち手を合わせてすぐに向こうに立ち去った蒼紫の顔は、巴の目にはそう寂庵に言われても何の感情も動いていないように見えた。この整った顔の下に、御沙薙をあざむき切り捨てたあの残酷さがある。だが寂庵の蒼紫評は、悪気があって言っているわけではない。それは巴にもわかっていた。ただなんだか巴には、蒼紫の人生がとても寂しいもののように思えた。傾いてはならないと思う巴だったが、清里の爛漫だった性質に比べると、蒼紫は気の毒なぐらい暗い男だった。彼にも笑顔が浮かぶときがあるのだろうか。それはしかし、私には見ることはないのだろう。そう思った。

「湖が見えてきましたね。そろそろです。」

怪我をして待機していた猩々が彼方の青色の水面を指さした。山並みの間に見えた諏訪湖の水面は、陽光にキラキラと輝いていた。その時だった。「あ」と巴は前に少しつんのめった。左足の草鞋の鼻緒が切れていた。巴は歩けなくなった。

「こんな時に。」

巴が申訳なさそうに言ったとき、そばにいた蒼紫が不意にしゃがみこんだ。蒼紫は巴の足から草履をはずそうとした。巴はびっくりしてとっさに足を引っ込めようとした。蒼紫は叱りつけるように言った。

「動くな。」

「・・・・。」

「すぐにすむ。」

巴は内心びくびくしていたが、蒼紫に素直に足を預けた。蒼紫の手が足首に触れたのを感じた。この人の手だ、昨日握った手だ、と巴は思った。瞬間大きく胸の鼓動が弾むのを感じた。蒼紫に気取られただろうか、とうつむき頬が染まるのを巴は蒼紫から見えないようにした。

「御頭。先に行きますぜ。」

と、式尉と火男が歩いていく。二人の様子を、もらい見して肩をすくめたようであった。縁は立ち止まって蒼紫たちに不満そうな顔をしたが、「おい」と猩々に背中をどやされて、前に歩き出した。御庭番衆たちは縁から見れば、やはり怖い兄貴分だった。

蒼紫の作業は数分ほどですんだ。

「これでいい。歩けるか。」

「はい。」

と、その時上空からぽつりぽつりと雨脚がかかり、見る見るうちに本降りになった。巴は菅笠を持っていたが、防げるようなものではなかった。一行は手近な雨宿りのできる場所にあわてて入って行った。巴たちは、先に行った連中とは自然別になってしまった。沿道の古い民家の離れの軒先に蒼紫たちは入った。雨はしばらく降り続くようであった。二人はしばらく押し黙っていた。巴はこの雨がやまなければいいのに、と思った。あと数刻すれば蒼紫とは離れ離れになる。何か一言言わなければと思った。しかし蒼紫に話しかける勇気がなかった。私はどうしてこうなのだろう、と巴はぼんやりと考えた。自分は生まれつき他の娘に比べ口が重い。清里は俺は気にしないよ、と笑ってくれたが、蒼紫はどうだろうか。先に口を割ったのは蒼紫の方だった。

「・・・・この雨のうちは、敵は仕掛けてこないだろう・・・。」

「はい・・・・。」

「あなたには、悪いことをした。すまない。」

「あの。」

蒼紫の言っている意味が漠然としていた。そしてやはり蒼紫は任務のことだけ考えているのだと思った。巴は空を見上げながら歌うように言った。

「御恩は一生忘れません。江戸に帰っても、忘れません・・・・。」

「俺もあなたのことは、一生忘れないだろう。」

巴は蒼紫の言葉に、はっ、とした。これまでとは違う調子だった。というよりも、そのようなことを蒼紫が言うとは思わなかったので、巴は蒼紫の方を振り向いた。

間近に蒼紫の顔があった。蒼紫は指を伸ばして、昨日斬られた巴の頬の傷に触ろうとしていた。「髪に水が」、と言ったようだったが次の瞬間巴は心底驚いた。巴は蒼紫に抱きすくめられていた。心臓が縮み上がるような思いだった。ああうれしい、と巴の心の中のもう一人の巴が言っていた。しかし巴は蒼紫の体に手をあてて、押しのけるようにした。

「あの、やめてください・・・・。」

巴は消え入るような声でそうささやいた。蒼紫の上にかけた両手がふるふると震えた。そしておずおずと蒼紫の体から身を引いた。自分がやっていることは、思っていることと違う、そう思うと巴の心は泣きそうだった。そうではないと巴は思った。もうすぐ別れるのに、明日の保証もなく蒼紫と抱き合うのは巴は嫌だった。この人も清里と同じと巴は思った。それがつらくて悲しかった。頬に一粒の涙がこぼれた。

蒼紫の目にもそれは映ったようであった。蒼紫は目を落として言った。

「・・・・美しい名前だと思った・・・。」

「え・・・。」

「あなたの名前、雪代巴というのが、美しい名前だと思った。俺の母の故郷は上州で、冬には多く雪が積もる。音もなく空から雪が舞い降りる時があるのだそうだ・・・。」

とっさに蒼紫が何のことを言っているのか、巴にはわからなかった。ただすまないという意味で言っているのだと思った。巴は言った。

「あの、これ以上のことは・・・・。」

見上げた巴の目に、蒼紫の顔が映った。巴はその顔を見てはっ、となった。蒼紫は巴を気遣うような、優しい微笑みをその口元に浮かべていた。指先で巴の頬の小さな瑕を指向しながら、蒼紫はそっとささやいた。

「その名前が消されるのは惜しい――血の雨で。」

蒼紫はそれだけ言うと、立ち上がった。巴は蒼紫にとっさにすがりつきたい気持ちを抑えた。こんな時はもう二度とない――おそらくないのだ。巴にはそれがよくわかっていた。蒼紫はやや小降りになった雨の中を駆けて行った。

巴は思った。どうして私は――あの人に好きだと一言だけでも言えなかったのか。蒼紫が自分を求めたのなら、少しだけでも分けられなかったのか。もうあの人の人生と私の人生は、交わることはないのに。

巴はしばらくその場で石像のように動かなかった。

広告を非表示にする

道行(三)

真田の里は、街道筋から外れた、小高い丘の上にあった。背の高い杉の木が輪中の村のように囲っている。当主は洩矢御沙薙(もりやみさなぎ)という少女で、何代も続く真田忍軍の正当な血筋の、頭目を名乗るにしては幼い姫である。しかし冷酷な性格であり、蒼紫も何度か会ったことはあるが、任務以上の感情は持ち得ようがなかった女であった。その女の館に通されて、一行は大きな日本間で対峙していた。真田の姫は、付き人の男から丹の朱杯を受け、着流し姿で脇息に寄りかかっている。接待とはいえ、いかにも蒼紫たちを見下している態度が見てとれる態であった。蒼紫たちは正座して座っている。御沙薙は言った。

「・・・・で。蒼紫、旅の途中らしいが。どこに赴くつもりかな?」

「伊勢に参るつもりです。」

ほう、と御沙薙はわざとらしくあいづちを打ち、答えた。

「その女はもう間者にしたのか?違うか。ただの町人だな。おまえがそのようななりで付き添いをしなければならないというのは、重大なことを秘めたことだな?」

「真田の陣内を通過しなければならないのは、旅の途上わかっておりました。礼を欠いたのはあやまります。」

「わかっているのならよい。私が知りたいのは、おまえの旅の理由だよ。京の翁のところにその女を運ぶのではないのか?」

御沙薙は杯をなめつつ、蒼紫に問い詰め続けている。蒼紫は終始乱れることなく、落ち着いて答えた。

「翁は今回の件にかかわっておりません。真田も同様のことにしていただきたい。」

御沙薙は蒼紫の答えを聞くと、手にした杯を畳に投げた。

「貴様。瑠璃波硝子の利権の話を、この私が知らないとでも思っているのか?おまえは今からその謎を暴き、上様に報告するべく旅を続けている。それであのような追放した連中にも狙われているのだ。違うか?!」

巴は御沙薙の冷ややかな罵声を聞いて、心中はっとした。蒼紫からそのような話はまったく聞いていなかった。とっさに、御庭番衆はやはり、硝子の利権を狙って自分に近づいたのだと思った。そして蒼紫の横にいるのがいたたまれないと思った。

御沙薙は言った。

「蒼紫。ここは取引をしよう。おまえがこの里にとどまり、御庭番衆の権限の一部を私たち真田に預けるというのなら、その女はここを通過してもよい。硝子の利権にも真田を加えてやるというのなら、なおのこといいが。」

「・・・・・・・・。」

「おやだんまりか。まあおまえが口を開くのは、めったにない。一晩返事を待ってやる。歓待してやるからな?」

と、御沙薙は言うと、あごで付き人に指示し、自分は部屋に下がってしまった。

「御頭・・・。」

一行は館の一室に通されている。癋見と火男が不安げにつぶやいた。寂庵は言った。

「仕方がないことじゃな。蒼紫、抜ける手はずは整えられるか。」

「影を使う。」

「それしかないだろう。巴さんらは忍びの心得がない。」

蒼紫は懐から蝋燭を何本か取り出した。

「般若、通用口を確認できるか。俺たちは抜けられるが、巴たちは無理だ。」

「そうですな。」

寂庵は言った。

「そろそろ野分の時期となったようじゃな。」

 

巴と縁は、襖を隔てた奥の間で向き合っていた。縁は言った。

「あいつらなんか相談しているなあ。ねえちゃん、俺たちだけでここを出て行くことはできねぇのかな。」

「仕方がないのです。みなさん、私たちのために戦ってくれているのです。」

「本当かよ?あんなやつ、一緒にいる理由なんかあるの?あいつ、俺たちの父ちゃんがやってた研究が目当てで一緒にいるんだよ。だったらいる理由なんかねぇよ。」

巴は惑乱する気持ちを抑えながら、必死に弟に言い募った。

「そんなことを言ってはなりません。今だって、猩々さんが私たちのために怪我をしたでしょう?迷惑をかけているのです。」

「迷惑?あいつらが勝手に俺たちについてきて、ねえちゃんのことさらって・・・・そうだって葉霞さんも言った。俺はさ、両方の言い分を聞いて、俺なりにちゃんとわかってる。俺だってもう大人なんだ!」

「縁・・・。」

縁はすっくと立ち上がると、涙を振り絞って叫んだ。

「俺だってねえちゃんが殺されないようにって考えてるんだ!ねえちゃんはあの蒼紫ってやつが好きなんだろう?!ひどいや、あんなやつ、死んだ清里さんのことだってもう忘れているんじゃないか!」

「縁・・・・っ。」

その時襖ががらっと開いた。巴はあっと驚いた。中に立っていたのは、寂庵ひとりだけであった。巴は言った。

「あの、他の方たちは・・・・。」

「みなこの館をすでに抜けた。来なさい。ここに影が用意されておる。これはあんたたち二人の形代(かたしろ)じゃ。」

巴はそれを見た。白い布の塊が部屋の真ん中に置いてあった。

「こんなもので・・・。」

寂庵は答えた。

「あんたは夜店の市で、錦影絵(にしきかげえ)というものを見たことはあるかね?あれと原理は同じじゃよ。ただ忍びの術であんたたちが部屋の中でずっと座っている、そのように見える。これはまあ、そうしたものじゃ・・・。」

「どうしてこの館に来なければならなかったのでしょうか。」

「あんたには理解できないじゃろうが、幕府の御威光が昔の戦国の世のように戻ろうとしているのじゃ。もはや幕府は一枚岩ではない。地方の群雄がそれぞれの縄張りを主張し、あんたのように札をかけられた者が通過する際には、何かをよこせと言ってくる。今回の事はまあそうしたことだったのじゃよ。」

「それでは私たちのために・・・・。」

「いやいや。元はと言えばあんたの家がかわいそうな目に会っていたからじゃよ。わしゃあんたに同情している。縁くん、君にはつらいことをしてしまった。もう少しの辛抱じゃ。これからここを抜けて信濃国の下諏訪にまで出れば、甲州街道に再び合流する。そこからあんたたちは江戸に戻りなさい。」

「えっ、でも。」

「あんたは最後までいる必要はない。あんたが持っているはずの硝子石の袋は、今はもう蒼紫が持っている。それさえあればいいのじゃよ。あんたは江戸で名前を変えて暮らすといい。江戸につけば、そのような手はずがあるはずじゃ。」

「・・・・・・。」

「元はと言えば御庭番衆の頭目が蒼紫に命じた始末からじゃった。逆らうことはできないのでな。形だけここまで旅をしてもらった。あんたには気の毒じゃが・・・・弟さんのこともある。わしらのような連中とは、関わり合いにならない方がいいのじゃ。」

寂庵はそう言うと、巴たちを促して部屋を出た。裏口へと進んで行った。巴はすっかり心が死んでしまったようになり、足取りも重くなった。何のために私は今ここにいるのだろうか。いや、考えてはいけない。巴の横の縁はしかし、すっかり上機嫌であった。

「おじいさん、下諏訪にまで行けばいいの?」

「そうじゃよ。途中まではわしが送ってやる。」

「うん、ねえちゃんよかったね。」

巴は言わずにはおれなかった。

「あの、でも、先ほどの猩々さんが怪我したようなことが何度もあるのではないですか?」

すると寂庵は面白そうに笑った。

「ああああいうことがその、甲州街道の帰路の道中にあると?まああんたはそう思うな。あんたがあれの横にいたから、ああいうことになった。あんた一人では何ほどのこともない。」

「でも、あの方たちが危険な目に合われます。」

「あんたは人がいい。あれはそうした任務についている男じゃから、切り離して考えるべきだ。要するに、あれにはあんたが安全な場所に行くように、右から左へ送り届けただけの話なのじゃ。そうしたことは、あれの日常じゃから、いちいち感傷に浸っている暇などない。まあそうした世界は江戸に帰ったら忘れることじゃな。」

巴は「そうですか・・・。」と口の中でつぶやいたが、目に薄い涙が自然に沸いてくるのを抑えることができなかった。

「・・・ねえちゃん?」

縁は巴に少し気配を感じたが、すぐにそっぽを向いた。姉のこういうなよなよとした態度は、縁は好ましく思う時もあったが、いらだつことも多かった。

巴は意気消沈しながらも、ふと気づいたことを寂庵に言った。

「あの・・・・先ほどの戦いのとき、私たち兄弟の人相書きが出ていると敵の者が言いました。それは、大丈夫なのでしょうか。」

寂庵は答えた。

「それはわしらがこれから無効にする。蒼紫が瑠璃波硝子の件を報告できれば、その人相書きは意味のないものになる。すでにあんたにかけられた嫌疑の一部である、秘密の石はわれわれが握っている。用済みということになり、あんたたちにかかわりあう時間も惜しいものになる。さて、ここからだな。」

寂庵は木戸を開いた。

裏口は闇に静まり返り、不気味なほど何の気配もない。すでに時刻は夕闇を過ぎており、館は黒い影になって山のふもとに眠っていた。巴は先ほど見た御沙薙という少女の様子を思った。これはたぶん罠、いえ、そんなことはない。後ろを振り返った時、今までいた遠くの部屋に明かりがともり、障子に人影がふたつ影になって幻燈のように見えていた。あれであの少女はだまされるだろうか。無理だ。巴の脳は呻くようにそう考えた。あの少女はすぐに見破る。今まで出会ってきた女の忍者たちと、あの少女は同種の生き物だ。何よりも蒼紫がすでにあの館にいない。あの少女は一晩とどまるように蒼紫に言った。蒼紫はその約束をたがえている。

巴たちは街道に向かって暗い道を降りだした。ひゅん、とその時巴の頬の横を何かがかすめた。巴は手で触った。血が少し手についた。小さな刃物が飛んできだのだ。巴ははっ、と驚き、とっさに縁の手を握りしめた。

「来たようじゃな。」

寂庵は手にした仕込み杖を抜いた。刃渡りが1メートルほどの長い細い剣である。先ほどの戦闘でも使っていたようであるが、巴はあまりよく見ていなかった。

「時間稼ぎというほどでもなかったが・・・・道は開けた。あとは二人羽織じゃ。姫街道を降りるは道中膝枕・・・・歌うは笙(しょう)。」

寂庵はそう言うと、小走りに走りながら、剣を振り出した。道なりに黒い影が数名、倒れていくのが見えた。その先に、一人の黒い少女が立っていた。少女は背中から剣をすらりと伸ばしながら引き抜いた。少女はつぶやいた。

「老人。おまえの時は過ぎた。」

風のように少女はまっしぐらに突き進んでいく。楽し気に白い歯をこぼして笑っている。巴は惑乱した。私はこの少女に斬られる。紙のように斬られる。その時巴はあっ、と思った。いないと思っていた御庭番衆のうちの般若が盾となって少女の前に現れ、瞬間一撃を交わした。御沙薙は笑ったようだった。私にはどれほどのこともない、という風だった。般若をやり過ごし、次に火男、癋見の順に御沙薙は切り結んでいく。しかし彼らは御沙薙の突進を止める態まではせず、道標のように御沙薙は式尉まで斬った。これは幻覚?しかし御沙薙の突進が少し緩んだようである。だが寂庵に向かってすごい速さで御沙薙は移動してきている。目指すは間違いなく私だ、巴はそう直感した。御庭番衆たちは御沙薙を防御できなかった、そして寂庵さんでは無理だ、殺される、蒼紫は私を助けてくれない、そう思った瞬間だった。

ガッ、と二艘の剣が空中から鋭く飛来して、寂庵の持つ剣と交差して御沙薙の体に入った。

「貴様・・・・・っ。」

御沙薙は我に返ったようだった。寂庵は言った。

「遠円望(とおえんぼう)の効果はあったようじゃのう。あの蝋燭の光におびき寄せられて・・・・蛾のように直進するとは愚かじゃ。上ががらあきじゃったわい。」

蒼紫が御沙薙の上に蝉のように乗っている。ばしゅ、と両剣を引き抜いた。空間に血の雨がぱっ、と舞い散った。

「そん、な・・・・あお、し・・・・っ。」

御沙薙はようやくそれだけを言い、地に崩れ落ちた。瞳孔を見開いたまま、御沙薙は死んでいた。

巴はへなへなと尻もちをついた。あまりのことに腰が抜けてしまったのだった。蒼紫は影のように横に立っている。御沙薙を冷たく見降ろして言った。

「利権の話を知っているから、消す必要があった。」

寂庵は言った。

「そうじゃな。まあそれがわかっただけでも、あの館に招き入れられたのはよかったことじゃわい。では行くとするかな。巴さんや。」

縁は泣き出しそうな顔になっている。巴にすがりついて言った。

「ねえちゃん、ねえちゃん・・・・。」

癋見は巴ににこ、と笑いかけて言った。

「あ、立てます?こういうこと、下諏訪にまで行ったらなくなりますから・・・。」

巴は必死で首を縦に振って答えた。

「は、はい。」

蒼紫は無言で巴に片手を差し出した。巴はようやくの想いでそれを手に取った。

蒼紫の手は今勤めを果たしたせいか、暖かかった。

 

広告を非表示にする

道行 (二)

蒼紫たち一行は、春の気配のする街道筋を西に下っていた。宿を下向し、いよいよ関所が近づいてきている。巴と縁を中に入れて、一向は縦一列で歩いている。

巴は関に入る時は緊張した。江戸に入る者、出る者を厳しく吟味する場所だ。彼らは御庭番衆を名乗ってはいないし、関所に出す鑑札も去る筋から渡された「偽物」である。身分や出身は江戸の下町の町民と偽っている。ただ、なぜか巴たちの名前は「雪代」姓のままであった。

関では見事に変装した般若が、「伊勢講の集会に出席するために、中山道を名古屋に下りまする」と奉行に言った。かの源義経の故事のような所作をするわけでもなく、蒼紫らはそのままそこを通された。ただ、奉行は「雪代」という姓名を読み上げた時、少し片頬で笑ったようであった。巴はそれが気になった。

「なに、珍しい名前だから気になっただけであるが」とその中年の奉行は言った。

しかし特に怪しまれている様子ではなかった。奉行は笑顔で「では通られよ」と蒼紫らに申し渡した。関越えはあっけないものであった。

その日は晴天に恵まれていて、道中は葉霞らが仕掛けて来ない今は、山道ではあれ楽なものであった。自然、癋見や猩々などは私語が多くなった。彼らは巴らが気になって仕方がないのである。先を行く蒼紫と般若らは無言であったが。そしてしんがりを守って歩いているのが、式尉と火男であった。体格のいい彼らは、後を通る不審な者が前に行くのを防ぐ「栓」の役割を果たしていた。巴と縁は真ん中で、寂庵と猩々、癋見と歩いていた。

と、癋見が小声で巴に言った。それは先を行く蒼紫らが十分に彼らから離れているところを見計らってであった。

「ねぇねぇおねぇさん、若頭とお話した?」

巴は聞き返した。

「え・・・、なんでしょう?」

「だから蒼紫様と・・・なんにも話したことないの?」

猩々は横からしっ、と言った。

「馬鹿。そんな話すんじゃねぇよ。」

癋見は駄々っ子のように答えた。

「何が馬鹿だ。若頭はあの老御頭に言われて、三ヶ月の間毎朝あんたに見張ってたんだぜ。好きでもないのにそんなこと・・・。」

猩々はこれでなかなか少年なのにしっかりしていた。歩きながら彼は答えた。

「余計なこと言うんじゃねぇ、癋見。若頭が聞いたら気を悪くするだろ。」

巴は驚いた。三ヶ月と言うと、まだ清里が生きていたころである。

───そんな頃からあの方が私を。

何かドキリとするものがあった。しかし巴はまだ年若い乙女であったので、まずそのことを聞いて頬が赤くなった。彼女はつとめて平静に小声で答えた。

「私は知りませんでした・・・・。何か理由があったのでしょうか・・・・。」

癋見は得意げに言った。

「それはもちろん、あんたと若を仲良くするためさね。」

猩々はまさか、と鼻じろんだ顔になった。そして言った。

「まったくてめぇは頭に花が咲いてんな。あのじじぃが俺たちにそんな親切心でいるわけねぇだろ。俺たちに、瑠璃波硝子の件を押し付けたってぇのによ。」

癋見はそう聞くと、身を乗り出して言った。彼にとってはいい思いつきだったらしい。

「だからそこなんだよ、猩々。本当は好きなのに、別々に暮らしているだろ。その二人を結びつけるのはどうしたらいいか。それには一緒の道中だ。これから仲良くなって、そしてだな、この巴殿もわれら御庭番衆の一員となり、晴れて夫婦になる。こいつは万々歳ですよね。」

「おい。」

猩々が顎をしゃくった。前を歩いていた蒼紫が、眼光を光らせてこちらをにらんでいるのがわかったからだ。もちろん余計なことを癋見がしゃべったからだ。

「おっちょこちょいが。言っちゃならんことを、どうしててめぇは言うんだよ!」

言うなり、猩々は癋見に肘鉄を食らわした。

「痛い、痛いです猩々。なんか俺間違ってますか。」

「ああ、多いにな。」

後ろから式尉が引き取った。癋見は恥ずかしそうな態で頭をかいた。そして巴に言った。

「ごめんなさい、もう言いません。」

巴はしかし、癋見の気遣いがうれしくなり、「はい」と答えた。寂庵はため息をついて言った。

「やれやれ、何を言うのやらと思うたら・・・・。」

しかし癋見の言うのはあながち間違いではないと、寂庵はにらんでいたので、それ以上は言わなかった。老御頭はあきらかに、巴と蒼紫を接近させるように仕向けていたのだ。それは寂庵にとっては蒼紫を思うと、不安材料であった。

だが、癋見や猩々がそこまでわかるわけはない。

「けっ、おっちょこちょいが、そんなこと言ってるから若がてめぇを仲間の中で一番信用していないんだ。馬鹿。」

猩々はあきれたように言った。蒼紫はもう前を向いていた。

これを聞いてますます面白くない顔になっていったのは、巴の横を歩いている縁であった。彼は癋見を殺しそうな顔でにらんでいたし、蒼紫にも目を光らせていた。一見彼は素直に姉の手に引かれていたが、彼は巴の周りを囲んで歩いている男たちすべてが嫌いであった。

 

縁は実はわざと葉霞らが蒼紫ら一行に潜ませて送った、刺客とまではいかないが、そのような「者」であった。縁にさんざんいろいろなよからぬことを吹き込んで葉霞は彼を野に放った。彼女は縁の心を見抜いていた。必ずやほころびはこの子供から起こると彼女は計算していた。

今彼女たちは山越えの道の端に立っている。そこからは峠をのぼる街道を見晴らすことができる。蒼紫ら一行が通るのはもう間近であろう。関に偵察に出した霞衆の女どもの報告を聞き、葉霞はすらりと刃を抜き払って言った。

「ここで蒼紫を追い落とせないのは、恥ずかしいことさ・・・・・。」

葉霞はそう言うと、二人の女に言った。

「仕掛けるよ。まずあの後ろにいる金魚の糞どもを女からひきはがす。蒼紫と般若は私が殺る。おまえたちは背後からつくんだ。いいね。」

ぱっ、と女たち二人が木々を飛び退った。葉霞はもうひとりの女、麗月と蒼紫たちの前に木の上から躍り出た。蒼紫はしかしさほど驚いていなかった。葉霞は刀をかざして言った。

「どこに行くんだい、蒼紫?女を連れて物見遊山かい?いいご身分だねぇ、伊勢見物かい。その女、悪いがあたし達が用があるんだ。置いていってもらおう。」

蒼紫は答えた。

「・・・・・。どういう要件だ。」

「言うと思うのかい?あたしはね、あんたがわざわざ京にまで上る用をなくしてあげようとしているんだよ。」

「どういうことだ。」

「じゃあ言ってあげよう。その女は瑠璃波硝子の件で、さる筋から人相書きが出ている。それでおまえの御頭はおまえに見張るように言った。それは知らないだろう。」

蒼紫は無言だが、憮然としたおももちで葉霞の顔をにらんでいる。

後ろでやりとりを聞いていた巴は、不審に思った。先ほどの関では普通に通されたのだ。人相書きが出ている・・・・何かおかしい。

巴は横にいた寂庵に「どういうことでしょう。」と小声で尋ねた。寂庵はだまりこくっている。巴の横で猩々と式尉が刃を抜いた。

「・・・・裏筋だ。」

式尉がつぶやいた。巴は目を見張った。「でも」、と言いかけた巴を制して寂庵がつらそうに答えた。

「そうじゃな。おまえさんにすべての責を着せたい闇の勢力がいるということじゃな。」

「それは」と巴が言いかけた時、葉霞たちは斬り込んで来た。蒼紫は剣で受けた。葉霞は高笑いをしながら、蒼紫を追い詰めていった。葉霞は叫んだ。

「おまえは一生、あたしの下働きでよかったんだよ!それを、あのくそじじいがっ。」

くそじじいというのは、後に先代と呼ばれることになる爺だ。葉霞は蒼紫をあおった。

「じじいに目をかけられて、次期御頭かい?あたしたちを追い出して、さぞかし安泰なんだろうねぇ。おまえたちの組織は、あたしがつぶしてやる。あたしたちを追い出したことを、後悔させてやるっ。」

蒼紫は葉霞の剣を受けながら、山道を巴たちの方から離れるように進んでいる。葉霞を巴と縁から離そうとしているのだ。蒼紫は以前に霞衆と戦った時、女たちの剣さばきを体感していて、やはり一番の脅威は葉霞だけと認識している。寂庵はその様子を、やはり女たちの攻撃を剣で受けながら感づいていたが、「いかん。蒼紫。」と思い、叫んだ。

「蒼紫、罠じゃ!」

縁はこの様子を見ていて、巴の袖を引いた。他の御庭番衆たちも激しく女たちと戦っていて、突っ立っているだけでも危険だ。縁は言った。

「ねえちゃん、逃げよう。こいつらなんかほっといて。」

巴は「えっ。」となったが、「なりません。」と厳しく答えた。

「私も戦います。」

そう言って、巴は懐刀に手をかけた。

「だめだよ、ねぇちゃん。」

「でも。」

巴から一間ほど離れた場所で、火男と式尉が霞衆の女たちと戦っていた。火男は火炎を吐いて、巴たちに女たちを近づけまいとしていたが、女の一人が鎖分銅で火男の首に攻撃を仕掛けた。
「てめぇっ」
猩々と癋見が、素早く螺旋鋲を放った。女の一人が苦悶の声をあげて倒れた。
「やった。早く、こっちへ。」
猩々は癋見と、巴らが街道筋から山肌を降りた茂みに隠れるように誘導しようとしている。
「うまいぞ、猩々。その調子じゃ。わしもすぐそっちへ行く。」
寂庵はそう言い、巴らの方へ行こうとした。しかし激しい斬り合いを続けながらなので、女をまくことがなかなかできない。
その時だった。蝋外が寂庵の前に躍り出たのは。蝋外は叫んだ。
「しゃらくせぇっ。何を手間取ってるんでぇっ。」
寂庵はからくも蝋外の一撃をかわした。肩の袖を切られている。
寂庵は叫んだ。
「いかんっ。蒼紫っ。」
寂庵が危惧したとおり、蝋外は巴の方に向かって行こうとした。巴はあわてて刀を抜いた。蝋外は歯をむいて笑った。
「なんでぇ女。歯向かおうってぇのか?」
蒼紫は葉霞と対峙しながら、これらの状況を察していたようである。「もらった。」と蒼紫の剣先がそれたと見て葉霞は叫び、大上段にふりかぶり、蒼紫の眉間目がしてふりおろした。しかし。
葉霞が切ったのは、木の枝だった。葉霞はいい枝ぶりの幹がとん、と地に落ちたのを見て目を見張った。
「なにっ。変わり身?!流水の動きかっ!」
黒髪をざんばらと振り乱して、葉霞は巴たちの方を向き直った。蒼紫の気配がそこ目がけて移動している――葉霞はそれを感じた。
「そこっ!」
葉霞は腰の小太刀を抜くと、ひょう、と蒼紫の気配目がけて投げた。そこに蒼紫の実体があるはずだった。
「あ、葉霞さまっ。」
女の一人、麗月が葉霞の刀に串刺しにされて倒れていた。蒼紫はもう蝋外の目の前に立って、巴をかばうべく剣を受けている。
「貴様っ、よくも!」
葉霞は瞬間憤った。飛び退るように蒼紫に向かって突進し、剣を逆手に持ち換えると、巴の前にいる蒼紫の胸目がけて、旋回させた。その瞬間、蒼紫の影からはずむように小さな影が出て、葉霞の剣を受け流した。

「猩々さんっ!」

巴は思わず叫んだ。猩々の肩が斬られて血が噴き出していた。猩々は転がる体を立て直し、剣を構えなおしにらんでいる。葉霞は肩で息をついて叫んだ。

「とんだ邪魔だね。蒼紫っ。」

とその瞬間、蒼紫の蝋外に対しての剣が右腕に入った。しかし剣の入りは浅い。

「うぉっ、てめぇっ。」

蒼紫は剣を突きつけて言った。

「・・・・去れ。」

「そうはいかねぇぞ・・・・。」

その時、彼方から呼子の笛の音が聞こえた。ばらばらと、黒い影がこちらに向かって突き進んで来る。葉霞は眉をひそめた。

「真田忍軍・・・・あの鬼姫か。まずいね。兄さん、ここは引いた方がいい。」

「なんだと。」

蝋外が腕を押さえながら言った。葉霞は答えた。

「あんたも怪我しただろう。麗月と霜月を殺(や)られた。こいつはまたの機会があるだろう?」

「仕方ねえな。おい、青二才。おとといおぼえとけよ。」

彼らがばらばらと立ち去った後、女の死体がふたつと、うずくまっている猩々と蒼紫たちが残された。

「猩々さん、しっかりしてください。」

巴が持ちよりの手ぬぐいの布を口で裂いて、手当している。その時蒼紫たちの横に、二頭の馬が駆け寄り、その一頭に乗る振り分け髪の美少女が声をかけてきた。

「久しいね。蒼紫?その人は?」

面白げに少女は見降ろしている。黒い忍び装束を身につけている。蒼紫はしかし喜んだ様子ではない。口を開いてこれだけを言った。

「・・・助けてもらったことは礼を言う。」

「そうかい。わけありみたいだね。怪我をしているやつがいるみたいだから、うちの館に来るといい。」

少女はそう言うと、早足で駆け去った。

「お頭・・・・。」

癋見が不安そうに言った。般若は続けた。

「真田のところに寄るのは危険です。」

蒼紫は言った。

「行かなければあとがまずい。ここはあれらの緩衝地帯だ。」

巴が不安そうになったのを見て、寂庵が引き取った。

「なに、新宿(しんやど)に寄るようなものじゃ。あんたは心配召されるな。」

「はい・・・。」

一行は先導する真田の忍びたちの影について歩き出した。巴は、自分が次第に目的とははずれた道を歩き出しているような気がしてきた。しかし横を歩く蒼紫は無言だったし、巴から話しかけることもできなかった。巴はそれがつらいと思った。

 

広告を非表示にする

道行 (一)

蒼紫はまだ年若いいでたちで、ある山の峠近くの薄暗い小屋の中で、先代と後に呼ばれることになる老人と囲炉裏の火にあたっている。外は吹雪である。不意に、小屋の戸が風ではなく、はたはたと鳴った。

「あけてあげなさい。」と、先代が言うのに、蒼紫は戸のつっかい棒をはずした。

粉雪の風とともに、二人の親子連れが小屋の中に入ってきた。

菅傘をかぶった、旅装束の母親と娘だ。ひどく疲れている様子だった。蒼紫は戸をすぐに閉めた。

「火のそばに来なさい。」と、先代は二人に言った。

「はい。お世話になります。」

母親は頭を下げた。傘をはずしたところを見ると、品のある顔立ちの婦人と娘だった。

蒼紫はその様を見て、武家の出であろうと検討をつけた。しかし、華美とは程遠い装いの二人だった。下級武士の家の者なのだろう。先代は言った。

「その子はだいぶ疲れているようだ。蒼紫、水を飲ませてあげなさい。」

蒼紫はうなずくと、腰にぶらさげた竹筒の口をはずして、娘にさしかけた。

母親は「すみません」と言うと、筒を取って娘の口元に持っていった。

しかし娘はごほごほと咳き込んで、水を飲もうとしない。先代は蒼紫に命じた。

「熱があるようだ。丸薬を。」

「はい。」

蒼紫は今度はふところの丸薬の入った袋から、熱さましの薬を取り出して母親に渡した。母親はまた頭を下げた。

「まあ、すみません。こんなにもお世話をしていただいて。」

先代は目を細めた。

「何事でもありませぬ。それより、みどもは脱藩ですか。」

母親ははっ、と顔を青ざめさせて言った。

「いえ、違います。私どもはこれから江戸に帰る途中でございます。」

蒼紫はその頃は江戸から離れていたので、江戸に帰るこの親子を懐かしく思った。

そして熱があるらしい娘の様子をうかがった。

黒髪を短く切ったその顔は、たいそう愛らしい娘だった。蒼紫がその頃見たどの娘よりも色が白い。そして、蒼紫のほうを見て「ありがとう・・・・。」と一言返事をしたそのさまは、本当にかわいいものだった。

しかし、自分はこの娘のことを忘れてしまうのだろうな、と思った。

と、その時───娘が母親の手を引いて言った。

「あのガラスの細工を、父さまによく見せてあげてください・・・・。」

「ここにおられる方は、父上ではありませんよ。」

「母さま、お願い・・・。」

蒼紫は父親と間違えられているのだ、とは思っていたが、母親が娘の言葉に取り出した袋から出た代物で、その記憶は決定的なものになった。

緑色に光っていたそのガラスは───。

「これで気がすみましたか。」

娘は小さくうなずいた。そしてかすれ声でつぶやいた。

「父さま、勝手におもちゃにして持ち出して遊んで、ごめんなさい・・・・。だから早く帰ってきてね・・・。」

「熱が高いのね・・・・。」

母親は小声でそう言うと、すぐにガラスのかけらを元にもどしたが───。

そして先代はなぜ「脱藩ですか。」と声をかけたのか。そしてその娘が巴だとしたら、縁は何故いないのか。まだ生まれていなかったということなのか・・・・。

 

 

 

 

はっ、と蒼紫は目を覚ました。

今彼らは中山道のはじめの宿場、武州街道の蕨あたりを歩いているところだ。彼がいるのは、その旅籠の二階である。まだ今は平和な道行だった。巴は下の間で弟の縁と休んでいる。もちろん、彼ら御庭番衆は地味な庭師のいでたちで街道を歩いており、旅の目的も伊勢講に出席するためというふれこみである。次の宿場町まではいよいよ上州の山の中だった。彼らを追う葉霞たちはまだ街道筋には現れてはいない。

「若、おはようございます。」

般若が蒼紫のいる部屋にやって来た。例の般若の面はつけたままである。般若の面は見た者のだれもが不気味に思ういでたちだが、狼藉者がこのような歌舞いた面をつけているのは江戸ではよくある事であり、般若もそういうつもりで面をつけている。この般若を思ってか、猩々も同じように能の面をつけている。猩々緋の面だ。山猿に似ている自分を揶揄しての行為であろう。

彼ら御庭番衆はそういう風に、自分を演出するのは得意であるが、そのことについてお互いに問答することはなかった。特に蒼紫の元に集まった者らはそのような個人主義者が多かった。蒼紫自身がそういう性格なのも影響しているのであろう。

般若は言った。

「あの娘を単独で見張れと頭目(先代のこと)から命じられてから半月。このような妙な事態になるとは思いもよりませんでしたな。」

蒼紫は答えた。

「瑠璃波硝子が上様が最近ご執心であるとのことで命じられたことだが、本当はそうではないだろう。あの娘がいた藩の醜聞の後始末ということだな。しかし、目的の峠でその朱印状を見つける前に、あの二人はすみやかに逃がす手はずを取れ。御庭番衆とかかわりがあったということも、すべて消すのだ。」

般若は黙って聞いていたが、少ししてぽつりと言った。

「残念なことですな。」

「何がだ。」

「若にしては江戸にいた頃、熱心にあの娘が婚約者と往来に出るのを、忍んで観察しておられた。確か車夫に化けて往来で見ておられました。今も行動をともにしているのは、願ったりかなったりではないかと。」

「貴様も頭目と同じ言い様をするのか。」

般若は少しおっくうな姿勢になった。そしてあわてて取り繕うように言った。

「何も、私はただ、蒼紫様が普通の人間らしく見えるので、よいと思って言ったまでです・・・・。」

蒼紫は般若に取り合わず、話題を変えた。

「ところで、葉霞たちのほかに、誰が追手になるかわかるか。」

般若は驚いた。そして、やはりそこまで考える蒼紫を頼もしく思った。般若は答えた。

「さあ・・・・真田の里はここから近いですがな。真田忍軍やもしれませぬな。」

「そんなやつらは来ないだろう。おそらく西の御庭番衆だな。」

「翁のところですか。」

「翁は動かん。しかし巴は翁のいる京都に連れ去られる可能性が高い。用心しないといけないだろう。」

「では・・・。」

「巴を連れ去るのは、『闇乃武』だ。」

般若はひやりとした。こういう時の蒼紫は問答無用である。蒼紫は続けた。

「頭目の西の遠征部隊のひとつだ。われらの任務とは別に、巴はやつらに京都に間者として送り込まれるはずだ。それを阻止せねばな。そして───われらとはかかわりのない土地で、この幕府の始末事にもかかわらずに静かに暮らせるようにしてやらねばならん。」

「御意。」

般若は思った。蒼紫は頭目とこのような熾烈な争いを水面下で続けている。これでは蒼紫の身の上は本当に心元ない。しかし自分は蒼紫に大恩のある身の上、背くわけにはいかない。今回のことも、長年蓄積された二人の間の軋轢が生んだことだ。巴はその発端にすぎない、と。

「今日は幸い、いい天気でございますな。この先の横川の関所と碓氷越えは、のんびりと行きたいものです。」

般若は蒼紫の意気込みをそらすように、わざと天気の話題をふった。蒼紫は答えずに部屋を後にした。

広告を非表示にする

挽歌 (五)

「貴様ら、我が屋敷を何と心得る。やりたい放題、許すべきものにあらず──。」

巴ははっとなった。老人の声だった。しかし、その声は冷たいものであった。次の瞬間、朱膳の体は巴の前からぱっと後ずさった。

あやういところで、朱膳は老人の高速で走る剣から、からくも退いたのである。葉霞もはっとなった。

「御庭番衆御頭っ。まさか。」

蒼紫と斬り合いをしていたところを、葉霞も退いた。老人は言った。

「そのまさかじゃ。その方ら、神妙にいたせ。さて蒼紫、お前のその様はなんじゃ。これはどうしたことかな。」

老人は黒衣の忍び服から巴の香袋を取り出した。巴は驚いた。蒼紫に渡したはずのものは、この御庭番衆御頭と呼ばれる老人の手に、何時の間にか渡っていたのだった。

「貴様らこれが欲しいのであろう。渡さぬ。今は見逃してやる。去れ。」

御頭の老人はそう言った。蒼紫は目を見張った。

──「去れ」、だと。

それは断じて受け入れられない命令であった。蒼紫はこの、葉霞たちの攻撃については予測していたし、彼等を一網打尽にするつもりで屋敷の中で潜伏し篭城していたつもりだったのである。しかし先代と後ほど呼ばれたこの老人は、何もかも蒼紫の予定を今覆してしまったのだ。

蒼紫が見ているが早いか、葉霞たちは老人の指揮で殺到してくる御庭番衆の雑兵らを尻目に、屋敷からさっと逃げ出した。

「老人、甘いな。」

とだけ、葉霞は言ったが、それも彼女の口元を隠したマスクにさえぎられて、聞えるか聞えないかの声であった。

老人は葉霞らが去るのを見届けると、蒼紫に向き合って言った。

「さて・・・・蒼紫。貴様には言いたいことがわしにはたくさんあるのだが・・・・その女を見張れと言ったわしの言葉も貴様には伝わらなかったようじゃな。この石はしかし、今貴様に渡す。」

「御頭!」

と、老人の脇にいる忍びの男が声を荒げた。しかし老人は続けて言った。

「わしが貴様に命じてやる。貴様にとっては喜ばしいことであろうな。やつらの巣を突き止めた。中山道にある山の峰にある。そこまでその女とともに、やつらを追え。そして証拠の品を持って帰れ。貴様の部下をつけてやる。万が一にもしくじった時には貴様の命はないものと思え。雪代巴。」

巴は呼ばれてこわばった。

「は・・・・はい・・・・。」

「貴様は蒼紫とともに行くのじゃ。元はといえば、貴様の父が犯した誤りじゃからな。その責任を取ってもらう。貴様には働いてもらうことは、他にもたくさんあるからな。」

巴はこの時、その道中がどういうものであるかは想像できなかったので、蒼紫とともに行くことができるのはかえって僥倖であると思った。それでどきりとしながらも、顔は平静に保って答えた。

「はい。」

巴が気丈に答えたのにも、老人は何も思わなかったようだ。

──この方のお心は、目には読めない・・・・・。

巴はそう思った。冷たい感情の読めない灰色の目であった。老人は言った。

「支度をしろ。明朝にはこの屋敷を立て。宿はかねての手はずのところに取れ。連中は貴様らの邪魔をするだろうが、おいおい倒していくのじゃな。では。」

老人はそう告げると、忍びの者らに「解散」と告げ、奥の間に消えた。

蒼紫らの組の者は老人たちが消えると、寄り集まった。般若は蒼紫に向かって言った。

「若!これははめられましたぞ。」

般若は言った。

「我々のことは、邪魔になったのです。だから、我々だけで街道を下るように言われた。これは罠です。」

蒼紫は答えた。

「言うな般若。行くしかあるまい。」

「その女子供も連れてですか?大変な旅になりますぞ。」

「もとより承知だ。」

「この屋敷でやつらを討ち取って、その姉弟を逃がす手はずが・・・・。」

般若の言葉に、蒼紫は口元まで出かけた言葉を飲み込んだ。籠城策を取ったのは、ひとえに巴たちが忍びとして動けないからであった。しかしそれを彼は口にしたくなかった。ひたすら自分が甘かったのだと、忸怩たる思いであった。

般若と蒼紫の会話を聞いて不安になった巴たちに、寂庵が声をかけた。

「なに、うまくいけばおまえさんがたは、途中で逃げればいいんじゃ。そうなるよ、きっとな。」

巴は無言でうなずいたが、それはできないこととも思っていた。

父の話、あの鉱石の話を聞かされた今、自分は責任を取らなければならないと彼女は気丈にも思い込んでいたのである。

そして、縁は黙っていたが、この場のやりとりを聞いて、何故姉はここから逃げ出さないのであろうかと思い、幼いながらもその不満心を心に渦巻かせていた。彼にとっては姉が蒼紫の言うことを唯諾々と聞いている理由は、「それ」しか思い当たらなかった。姉は、どうやらこの蒼紫という男がたいそう気になっている様子なのである。

──今だってまた失敗しやがったのに。こんなやつ。

と、縁は思っていた。だいたい今も、あのいかめしい老人に、鉱石の袋を掏り取られていたのだ。

──間抜け。それにこの寂庵さんて年寄りも、調子のいいことしか言わないじゃないか。

縁はそう思った。そして、蒼紫らと一緒に行くのはご免だと思ったのだった。

しかし縁はそれらのことを見誤っていたのである。

寂庵は巴らを寝床に促したあと、血のりの落ちた月の照らす部屋を見ながらぽつりと一人ごちた。

「無残やな、兜の下のきりぎりす・・・。蒼紫殿、こたびの旅はあなたにとって、その生涯を決める旅になるやも知れぬ・・・・己のこともまた、己にはわからぬもの・・・・。」

寂庵はもちろん、彼等の旅に先代の追っ手と監視がつくことを考えていた。そして、蒼紫の本当の胸の内も、彼にはわかっていたのである。

広告を非表示にする